京の夢、坂東の現
早春の風が、真壁の山裾を渡っていた。
この季節の冷たい風が、筑波嶺の方角から強く流れ込んでくる。乾いた強い風は、まるで亡者の声を運ぶかのように細く鳴った。その寒空の下、荒野を一騎の若武者が駆けていく。
平国香の嫡男、貞盛は、ここ、石田館で生まれ育った。十五で元服するとすぐに上洛した貞盛は、運よく官職を得て朝廷に仕えた。皇統を誇る貞盛は、やがては堂上の階を昇ることを望んだ。
だが、その夢は父の訃報によって唐突に断ち切られた。
故郷の地に足を踏み入れた瞬間、貞盛は、坂東の風が、かつての静けさを失い、どこか荒んだ響きを帯びていることに気づいた。無骨な屋敷は、黒い骨のように焼け落ちていた。梁は崩れ、柱は炭と化し、風が吹くたびに灰が舞い上がる。貞盛は、広大な敷地の真ん中で、焼け跡の中に膝をつき、父・国香の骸を探した。
炭化した遺骨を拾い上げたとき、貞盛の胸に、初めて怒りの感情が生じた。だが、その怒りは、将門に向けられたものではなかった。
(父上……なぜ、将門殿と争ったのだ)
貞盛は、あくまで“一時帰郷”のつもりで常陸に帰郷した。
しかし、避難した母と妻の捜索は難航し、二月ほど経ってようやく山中に隠遁していた母と妻を保護できた。憔悴し切った母は、泣きながら貞盛に訴えた。
「大殿(国香)が、父上様(源護)と謀って、将門殿の所領を勝手に召し上げたから……」
その恨み言は、貞盛の胸に深く刺さった。
(父上……それは、道理に背くことではないか)
法要と浄めの儀式を済ませた時には、すでに真壁で半年以上が経っていた。
秋が深まる頃、水守の良正が挙兵するとの報を受けた。
もとより、己の立身出世を最優先に考える貞盛は、忠平卿が愛顧する将門と対立する気はなく、また、将門の武威に怖れを成し、むしろ機を観て和解する道を模索していた。
(将門殿に殺されたくば勝手に挑むがよい。だが、愚行は慎むべきであろう)
再三、参陣を促された貞盛だが、父の弔い、母と妻の捜索と保護を理由に、仇討ちの呼びかけに応じることはなかった。
貞盛は年が明けてから、ようやく良正の見舞いに訪れた。
水守館に到着したとき、貞盛は、胸の奥にひとつ深い息を落とした。広大な庭に、真冬の風が吹き渡り、落葉が乾いた音を立てて転がった。その音は、どこか敗者の呻きにも似ていた。
貞盛は、叔父・良正が寝起きする西の対屋へ通された。
「貞盛殿、よく来られた……」
良正は、川曲での敗走の痛みをまだ引きずっていた。その顔には、疲労と恐怖が深く刻まれ、まるで数年老いたかのように見えた。
貞盛は、胸の奥で静かに驚いた。将門に、いったいどれほどの武威があったのか、どれほどの恐怖を刻みつけられたのか。
貞盛は、良正の姿を見て、しばらく言葉を失っていた。
やがて、沈黙の重さが破られた。
良正は低く呟いた。
「貞盛殿。むしろ岳父殿の不義背反こそ、責められるべきであった。……亡くなった国香殿には悪いが……話し合いに訪れた将門を闇討ちしようなどとは……」
その声は震えていた。敗北の痛みだけではなく、真実を語ることを恐れる感情も混じっていた。
貞盛は、静かに目を閉じた。
(やはり……そうか……)
良正は続けた。
「国香殿は、源氏と謀り将門殿の所領を奪おうと動いた。源の三兄弟が、将門を亡き者にしようと待ち伏せし、不意打ちを掛けたのは、此度だけのことではない。……まさか手酷い返り討ちに遭い、命を落とすことになるとは」
言葉を吐くたびに、良正の肩がわずかに震えた。
(父上は“利”に囚われて強欲となり、強欲が極まって“罪”を生んだ。遂に、その罪が極まったので“死”に至った、因果応報ではないか)
貞盛の胸の奥に沈んでいた怒りが、ゆっくりと別の形へ変わっていく。
しばらく沈黙が続き、貞盛は良正に向き直った。
「良正殿。我らは将門殿と和睦すべきだ。この争いを続ければ坂東は滅ぶ。我が父の死を、無駄にしてはならぬ」
良正は、深く頷いた。
その頷きには、敗者の痛みと、それでもなお“理”を求めようとする意志があった。
「……その通りだ。だが、坂東平氏一門の棟梁である良兼が呑まねば、将門殿との和睦の道を進めることはできない」
――上総太郎良兼。
その名を聞いた瞬間、貞盛の顔にも、良正のときと同じようにわずかな陰が走った。しかし貞盛は、その感情を表には出さずに、静かに言った。
「良正殿……良兼殿に会いに行く」
良正は驚き、そして恐れた。
「……貞盛殿。良兼殿は、恐ろしいお方だ。あの御方の前では、誰もが声を上げることもできなくなる」
貞盛は、静かに微笑んだ。その微笑みには、京の雅に育まれた光明が宿っているようであった。
「一門の棟梁に対する箴言、恐れは承知の上。だが皇統を継ぐ嫡流である我は、亡き父に代わり道を正さねばならぬ。――坂東平氏一門が、“義”に立ち戻らねばなりません」
良正は、しばらく貞盛の顔を見つめていた。
その眼差しには、わずかではあるが希望の色が見えた。
(――だが……)
「貞盛殿……良兼は、“将門の謀叛”と決めつけておられる。一門の紐帯を傷つけた将門殿との和睦など、すぐには受け容れぬであろう」
貞盛は、静かに息を吸った。
「なればこそ、会わねばなりませぬ。我ら一門は、あまりにも『利』に囚われた。『怨』に縛られる前に、『理』と『義』を取り戻さねばなりません」
真冬の風が、二人の間を吹き抜けた。
その風は、坂東に満ちる争乱の胎動を告げるようであった。




