星災の前夜
桓武平氏高望流――坂東平氏の祖・高望王(平高望)には、三人の嫡男(国香・良兼・良将)のほか、さらに五人の男子があったと伝わる。
その六男・良正は、三人の兄に遅れて坂東へ下向した。庶子とはいえ、良正も国香・良兼と同じく源護の娘を娶り、一門の姻戚網の中に組み込まれていた。
常陸介・藤原維幾までもが高望王の娘婿として入り、坂東の支配は、これら“血縁”によって結ばれた巨大な網で覆われていた。血縁と姻戚の紐帯こそが、坂東の秩序であり、利権であり、そして安定そのものであった。
良正は、舅の源護の所領が広がる真壁方面を臨み、南は常総一帯を見渡す要衝――「水守」(みもり)(現在のつくば市水守付近)に居を構えた。この地を本拠とした故か、良正は、別名「水守六郎」とも呼ばれた。
その水守の館に、初春の強い風が吹き込んでいた。筑波嶺から吹き降ろす冷えた夕暮れの風は、どこか焦げた匂いを含んでいる。いまだ戦火の余燼が漂っているかのようであった。
良正は、主屋の中央に座し、胸の奥に沈む重い塊を押し殺すように、長く息を吐いた。高望王の代より続く、この一門の秩序が揺らいでいる。その秩序を、甥である平小次郎将門が破壊しつつある。
黒騎馬、黒い鎧。破軍星――七曜の一にして乱を呼び、古き秩序を壊し、新しき世を開く。それは、高望王の血脈を柱とする一門支配の秩序から見れば、まさしく“天の災い”であった。
良正は、静かに拳を握りしめた。
「小次郎よ……破軍の星が一門の破滅を望むならば、この良正が一門の守護者となりて、汝の暴挙を止めてみせようぞ」
その言葉は、決意というより、己を奮い立たせるための呪のようであった。
(動かねば……我が身が危うい)
上総介・平良兼――その名を聞くだけで、武門の者である良正の背筋を、わずかな震えが走る。源護一族という後ろ盾を失った今、娘婿の中で最も戦場の近くにいた良正が、ここで報復に動かねば、次兄の良兼がどう出るか分からぬ。
――それが、良正の胸に沈む“重い痛み”の正体であった。
門前で馬の嘶きが響いた。
「……石田の大殿がお着きになりました!」
良正は、沈鬱な心持ちのまま、重い身体を引きずるように立ち上がった。
門が開いた。そこに立っていたのは、疲弊して痩せ細った孤独な老人だった。両の眼は深い穴のように落ち窪み、その顔は煤にまみれ、かつて石田の館を支えた大豪族・源護の面影など、もはやどこにも残っていなかった。
良正は駆け寄り、家人に源護の腕を支えるよう命じた。
「岳父殿……このような御姿に……」
源護は震える手で、良正の袖を掴んだ。
「よ……良正殿……」
だが、良正の胸に哀れみの情は湧かなかった。
(……これが、敗れた者の末路か)
声は掠れ、風に消え入りそうだった。
「良正殿……。扶、隆、繁……我が子は、三人とも将門に討たれてしもうた……。国香殿も炎の中に沈んだ……」
その声は、涙とも嗚咽ともつかぬ音に変わった。
だが良正は、義理の兄弟の死を聞いても、兄の死を聞いても、胸が熱くなることはなかった。
(……死ぬ者は死ぬ。生き残る者が、坂東を握る)
源護は、掠れた声で続けた。
「良正殿よ、どうか我が怨みを。……我が一門の怨念を晴らして頂けまいか……」
良正は、静かに頷いた。
「皆の敵を討たねばなりませぬ。将門には報いを受けさせねばなりませぬ」
だが、その声には、将門の武威への微かな羨望と、それを押し殺す怖れがあった。
(……あれほどの強兵。もし将門が我が味方であれば、どれほど心強いことか)
武門としての生き方を重んじる良正には、“義”のために動いた将門の行動が、どこか美しく、どこか眩しく映った。だが同時に、その眩しさこそが、自らの立つ地を揺るがす「厄災」であることも、良正は冷徹に理解していた。




