義風の出立
冬の陽は弱く、空に白く滲んでいた。山裾の田畑は霜に覆われ、凍てついた畦道の上で、枯れ草が風に震えている。その冷たい風の向こうから、坂東の地に新たな気配が満ち始めていた。
――平将門が、ついに軍を起こしたのである。
将門は、庭先に居並ぶ兵馬を前に立っていた。吐く息は白く、甲冑の継ぎ目からは冷気がしみ込む。だが、その声は冬空を震わせるほどに力強かった。
「大国玉の争いは、もはや水利や境界の争いに非ず。“怨火”が“理”を呑み、義(なすべき正しいこと)を見失っている。民は疲弊し、このままでは更に多くの民が犠牲となる」
若いが、坂東の風を背負う者の重みがあった。
(……大国玉の大殿は、己の誇りを曲げてまで民を守ろうとした。ならば、その“義”に応えねばならぬ)
将門は、日を置かず郎党に命じた。
「兵を整えよ。馬を引け。筑波嶺の西麓へ向かう」
その声に応じ、冬の空気を切り裂くように兵たちが動き出した。
館の縁側から、君の御前が静かに歩み寄った。
冬の冷気に頬を赤らめながら、その眼は夫を案じて揺れていた。
「殿は、……真壁へ向かわれるのですね」
将門は頷いた。
「今、争いを鎮めねば、民は殺し合い、田畑は荒れ、皆が飢える。坂東の地は、さらに乱れよう」
君の御前は、凍える指先で将門の袖をそっと握った。
「民も、御父上も……皆が貴方様を頼りにしております。どうか、無事にお戻りくださいませ」
将門は微笑み、その手を包んだ。その掌は冷たかったが、その言葉には揺るぎない温かさがあった。
「案ずるな。我は必ず戻る」
それは若武者の虚勢ではなく、英雄の静かな覚悟であった。
「――出陣!」
将門が愛馬に跨がると、兵たちは一斉に槍を掲げた。馬の嘶き、甲冑の軋む音。冬の陽を受けて、白銀の槍先が鋭く光る。その陣容は、若き将門に相応しい精鋭であった。
将門軍は、凍てつく風を前から受けながら、筑波山西麓へ向けて進発した。百騎の馬蹄が凍った大地を踏みしめるたび、豊田館は低く震え、冬の空気に重い振動が響いた。
将門は、常陸・下総の野で鍛えられた栗毛の名馬の背に静かに座していた。馬の鼻息は白く、そのたびに胸当ての革紐が微かに震える。星兜の鍬形は鋭く反り、その鋲は冬の光を受けて淡く輝いた。黒漆塗りの大鎧は冬の陽を受けて青みを帯び、肩の大袖は冷たい風を受けて黒い翼のように揺れた。
将門は面頬を付けず、冷気にさらされた素顔は赤みを帯びながらも凛として澄み、眼に宿る烈しい光が兵たちの士気を高めた。
道の両側には、霜に覆われた集落がいくつも見える。畦道の枯れ草は凍りつき、水田には薄氷が張り、冬空が淡く映り込んでいた。民は鍬を置き、馬蹄の音に顔を上げた。
「……将門様だ」
「……黒鎧の百騎」
誰もが息を呑み、その行列を見送った。
見渡す限りの湿原には霜が降り、吹き下ろす風は冷たく鋭い。草は伏し、白い土埃が舞い、鳥が一斉に飛び立つ。湿原を抜けると、冬枯れの山々が影を落とし、その麓には静まり返った山林が広がる。木々の間を抜ける風は、どこか湿り気を帯び、戦の匂いを運ぶかのようであった。
将門は馬上からその山陰を見つめ、静かに言った。
「……解けた理を、“義”を以て結い直す」
その声は冬の風に乗って谷に響き、怨火に包まれた常陸の国に、新しい気配をもたらした。




