坂東に立つ風
平真樹は、大国玉の地に根を張り、山と水の気配を読み、人々の暮らしと祈りを背負って立つ――「導き手」と呼ぶにふさわしい男であった。
その真樹が己の娘を将門に嫁がせたのは、単なる政略ではない。
(この者ならば、我が娘を託してもよい)
若き将門の偉丈夫を仰ぎ見たとき、真樹はその瞳に、荒ぶる坂東の風を正面から受け止める澄明さと強さを見いだした。――重瞳。左眼の眼球の中に、瞳孔(黒目)が二つあるように見える。古来、“英雄の相”とも“王者の相”とも言われる異相。
(……この男とならば、坂東に巣食う「怨の焔」を鎮められる)
この縁組は、血縁を超えた強い同盟の絆となり、真樹と将門の間に深い信頼を育んでいた。
真樹が下総国豊田の将門の館を訪れたとき、最初に迎えたのは娘――「君の御前」であった。真樹の娘は将門の館で「君の御前」と呼ばれ、その心を支える存在となっていた。
「父上……石田の源護殿との争い、聞き及んでおります」
君の御前の声には将門の妻としての気丈さと、父を案じる娘の愛情が入り混じっていた。真樹は、その成長した我が子の姿に、一瞬、目を細めた。
(……将門にこの子を託したのは、間違いではなかった)
君の御前は、将門の傍らに控えながら言った。
「我が殿は、坂東の乱れを憂えております。きっと大殿のお力になれましょう」
その言葉に背を押されるように、平真樹は将門の前に進み出た。
将門は、真樹の来訪を聞くとすぐに立ち上がり、自ら歩み寄った。
「大国玉の大殿、よく来られた。筑波山麓での争い、詳しく聞かせてほしい」
真樹は深く頭を下げた。
「山の理も、水の理も、もはや怨に呑まれつつあります。我が力では、この争いを押しとどめることができぬ」
その声は、山の風にも似た静けさを帯びていたが、その奥には深い痛みがあった。
「将門殿……これ以上、民の血を流させるわけには参りませぬ」
真樹は、己の誇りを押し殺し、膝をついた。
「石田を滅ぼしたいのではございませぬ。源護殿にも、守る民がある。されど我らにも、もう飢えさせられぬ子らがございます」
君の御前は唇を噛んだ。将門はその横顔を見てから、改めて真樹へ目を戻した。
「将門殿。どうか、この争いをお収めくだされ。坂東の地を調える力を持つのは貴殿しかおらぬ」
――君の御前が、そっと将門の袖を握った。
将門は、真樹と妻の視線を受け止めて静かに頷いた。
「――舅殿」
その眼には、若さの熱と、坂東を背負う者の覚悟が宿っていた。
「この争い、我が調えてみせましょう。山の理と水の理を、結い直す」
真樹は深く息を吐き、胸の奥に灯る安堵を噛みしめた。
こうして、筑波山麓の争いは、若き将門の手に委ねられた。
その夜、豊田の館を渡る風が簀子を鳴らした。燭火が一度大きく揺れ、遠くで水の音がした。山から流れたその音は、血を含んだまま坂東の闇へ沈んでいった。




