怨火の谷
怨は、もはや堰だけに留まらなかった。
衝突から十日。双方の村々には、怨の火が静かに燃え上がっていた。
「大国玉は、我らの堰を奪い御山を乱した。そのうえ我が民を傷つけた」
源護の声は低く、しかし怒りを押し殺した響きがあった。
「このままでは我らの誇りは地に落ちる。山の民の威を示せ!」
若者たちは一斉に槍を突き上げた。
「大国玉、討つべし!」
「大国玉を屈服させよ!」
山の民の怒りは、もはや誰にも止められなかった。その数、五十余名。それぞれ太刀、薙刀、弓を携え、山風を切って谷へと下りていった。
一方、大国玉の館では、真樹が村人たちを前に静かに言った。
「真壁は、理では動かぬ。すでに怨火に呑まれておる」
村人たちは鍬や鋤を手に、真樹の言葉に耳を傾けた。
「だが、我らは守らねばならぬ。――民を、家族を、土地を」
真樹の声は静かだったが、その奥には揺るぎない決意があった。
大国玉の男たち四十余名が、谷筋の入口に陣を敷いた。
昼下がり、谷の向こうから、真壁の軍勢の鬨の声が響いた。山の民の足音が、地を震わせるように迫ってくる。
真樹は太刀を抜き、村人たちに言った。
「退くな。ここを破られれば、我らの田は荒れる」
真壁の軍勢が谷に雪崩れ込んだ。前回の衝突とは比べものにならぬ激しさだった。槍が突き出され、鍬が受け止め、山刀が鋤の柄を裂く。谷は狭く、両軍は押し合い、土煙と水しぶきが舞い上がる。
真樹は前線に立ち、次々と槍を打ち払い、村人たちを鼓舞した。
「怯むな! ここは我らの土地の入口だ!」
大国玉の男が応じる。
「水を奪う者は許さぬ!」
真壁の若者が叫ぶ。
「御山を乱す者こそ許さぬ!」
山と水、二つの理が刃となってぶつかり合った。水しぶきに血が散り、鍬も太刀も震える。刃が交わるたび、血は谷の水へ流れ込んだ。
戦いは一刻以上続いた。やがて、真壁の若者の一人が倒れ、地に伏した。
その瞬間、真壁の軍勢に狂気じみた怒号が走った。
「大国玉の血で贖え!」
「大国玉を滅ぼせ!」
「……殺せ! ……殺せ!」
怨が理を呑み込んだ。真樹は、その変化を見て悟った。
(……もはや、話し合いでは止まらぬ)
真樹は大声で叫んだ。
「退け! これ以上の流血は無益だ!」
大国玉の軍勢は、真樹の指示で徐々に後退した。
真壁の軍勢は追撃しようとしたが、源扶の郎党が叫んだ。
「扶さま! これ以上の深追いは危険にございます!」
真壁の軍勢は、倒れた仲間を抱えて退いた。谷には、血の匂いと、怨の残滓だけが残った。
真樹は、谷の水に流れる血を見つめ、深く息を吐いた。
(……これで、争いは「戦」へ変わった)
筑波嶺の谷筋で起きた二度の衝突は、大国玉と石田の村々に深い傷を残した。
倒れた若者の名は、どちらの村でも祈祷の声とともに語られ、そのたびに怨の火は静かに燃え上がった。堰は夜ごとに壊され、田は荒らされ、山の道では牛馬が姿を消した。村人たちの顔には疲れが刻まれ、幼子の泣き声すら、どこか怯えを帯びていた。
真樹は、谷の水に流れる血を見つめながら思った。
(……この争いは、いつまで続くのか)
大国玉と石田の争いは、もはや境界の問題ではなかった。
怨が理を呑み、村々の暮らしを蝕んでゆく。
だが、双方とも退けない。退けば、土地が奪われ、一族の未来が潰える。争いは“止められぬ流れ”となった。その流れを断ち切るには、もはや当事者ではない、第三の力が必要だった。己の誇りを曲げてでも、止めねばならぬ争いがある。
血に濡れた草を踏みしめ、真樹は太刀の重さを疎ましく思った。守るために抜いた刃が、次の怨を呼んでいる。
その時、真樹の胸に浮かんだ名があった。
――下総の小次郎将門。
夜明けを待たず、真樹は馬に跨った。手綱を握る指には、乾ききらぬ血の匂いが残っていた。




