↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
北辰の冥影 ~将門炎舞記~  作者: 浮島太郎
家門の重器

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
49/162

水脈の争

 平真樹(たいらのまき)は、常陸国新治郡・大国玉(おおくにたま)を本拠とする有力豪族であった。古くから続く大国玉神社の祭祀を司り、人々の祈りと暮らしを一身に背負って立つ存在でもあった。領地は真壁・新治・筑波の広範に及び、田畑の水利から山林の境界に至るまで、真樹は自らの足で歩き、季節の移ろいとともに土地の機嫌を読み取った。

 真樹は多くを語らぬ男であったが、その沈黙には、山野を知り尽くした者だけが持つ「土地の声を聞く耳」が宿っていた。そのため、村人たちは「大国玉の殿は、山の神と語らうお方だ」と、畏れと敬意を込めて語ったという。

 その姿は、筑波山の稜線に沈む夕陽のように、どこか寡黙で、どこか柔和な印象を与えた。だが、その穏やかな外面の裏には、一族を守るためならば、どんな苦渋も飲み込む覚悟があった。

 真樹の領地の一角、筑波山西麓は、常陸国真壁郡に館を構える豪族・源護の所領と接していた。――山裾の田畑、谷間の水利、古くからの境界。いずれも曖昧で、代々の確執が積み重なり、両者の争いは幾度となく繰り返されてきた。

 しかし、源護との争いが絶えなかったのも、ただの境界争いではない。

 真樹の大国玉は、山裾から流れ出る清水を巧みに引き、田畑を潤す「水の里」であった。一方、源護の真壁は、山林と谷筋を押さえ、木材と狩猟の利を握る「山の里」であった。

 水と山。筑波山西麓の水利と道筋は、お互いの領地を支える「命の道」であり、それを脅かす者には、たとえ古き縁があろうとも容赦はしなかった。互いに欠ければ成り立たぬ土地でありながら、境界は古来より曖昧で、どちらが一歩踏み込んでも争いの火種となった。


 ある年の冬、大国玉の田は春耕を前に水を欲していた。真樹は、山裾の谷筋にある古い堰を修繕し、水を引こうとした。

 だが、その堰は、源護の祖父の代に築かれたものであった。

「その堰は真壁のもの。勝手に手を入れるのは、我らの領地を侵すに等しい」

 源護は、山風に揺れる松のように頑なで、一度言い出したら退かぬ男であった。真樹は、争いを避けるために何度も話し合いの席を設けたが、源護は耳を貸さなかった。

「水は山の恵み。山を押さえる我らが、その流れを決めるのは道理であろう」

 その言葉には、山の民の誇りと、代々の領地を守る執念が滲んでいた。

 しかし、真樹もまた黙して退く男ではなかった。

「水は流れ、田を潤し、民の命を繋ぐ。山が恵む利は山の民だけのものではない。一族の利だけで縛ることは理(ことわり)に背く」

 真樹の声は静かであったが、その奥には、土地と人を守る者の揺るぎない信念があった。

 この言葉が、源護の胸に火をつけた。

「理(ことわり)だと? ならば力で決めるまでよ」

 両者の間には深い溝が生まれた。谷筋の水路を巡る小競り合いは、やがて村々を巻き込み、田畑の境界争いへと広がった。山の民と里の民が互いに睨み合い、堰が壊され、田が荒らされる。夜ごとに牛馬が盗まれる。筑波山の影は、争いの影でもあった。

 真樹は、土地を守るために太刀を抜くことも辞さなかったが、同時に、争いを終わらせる道を探し続けた。だが、源護は違った。彼は、「大国玉を屈服させねば、真壁の未来はない」と信じて疑わなかった。

 こうして、両者の確執は、もはや個人の怨恨ではなく、土地と一族の存亡を賭けた争いへと変わっていった。


 その日、大国玉の民は、平真樹の命で堰の修繕を行っていた。谷川の水が冬の陽を受けて白く光り、その音は、どこか落ち着かぬ調子を帯びていた。

「これで水が田にも戻りましょう」

「急げ、日没までには仕上げるぞ」

 村人たちの顔には、渇きから解放される安堵が浮かんでいた。

 だが、その安堵を裂くように、谷の向こうから怒号が響いた。

「大国玉の者どもよ、今すぐにその手を止めよ!」

 山風を切って現れたのは、真壁石田の若者たち十余名。手には槍、腰には太刀や山刀を帯びていた。

 その先頭に立っていたのは、源護の長男・源扶(みなもとのたすく)であった。

「その堰は我ら源氏のもの。勝手に手を入れるのは、御山を乱す行いよ!」

 村人たちがざわめく。

 真樹は一歩前に出た。

「扶殿。水は田を潤し、命を繋ぐもの。山の理も大地の理も共に守らねば、龍脈が歪む」

 源扶は鼻で笑った。

「理など知らぬ。御山の水の流れは山の民が決める。それが古来の習わしだ」

 真樹は静かに首を振った。

「ならば、せめて話し合いの場を――」

 言い終える前に、源扶は怒号を上げた。

「えぇい! 話し合いなど無駄じゃ! 源氏の御山を乱す者は討つ!」

 その瞬間、源扶の郎党である真壁の若者たちが、一斉に駆け出した。

 大国玉の村人たちは、鍬や鋤を手に応戦した。

「来るぞ!」

「守れ、堰を守れ!」

 谷筋の狭い道で、両者は激しくぶつかった。槍が鍬を弾き、山刀が鋤の柄を裂く。土煙が舞い、水しぶきが飛び散る。

 平真樹は太刀を抜き、源扶の前に立ちはだかった。

 源扶は歯を剥いた。槍が突き出される。真樹は身を翻し、槍の柄を打ち払った。金属がぶつかる甲高い音が、谷に響き渡る。

「扶殿、退け。これ以上は、双方に血が流れる」

 乱戦のさなか、真壁の若者が肩口に深い傷を負った。血が谷の水に流れ落ちていく。

「扶さま! 退きましょう!」

「これ以上は、危のうございます!」

 真壁の者たちは、倒れた仲間を抱えて退いた。源扶は悔しさに震え、真樹を睨みつけた。

 真樹は、源扶の目に宿る「怨」の色を見て悟った。

(もはや、理(ことわり)を諭しても止まらぬ)

「覚えておれ、大国玉の殿……この血、必ず返す!」

 その声は、谷にこだまし、山の影を震わせた。


 真壁の一行が去った後、谷には静寂が戻った。

 真樹は、倒れた若者の血が流れた水面を見つめ、深く息を吐いた。

(……これで、争いは「怨(うらみごと)」に変わった)


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。