反撃の烽
刺客の影が湿地へ消えた翌朝、浮島の館には白い朝霧が残っていた。
国豊は五月を抱き寄せた。五月は夫の胸に顔を埋めたまま、袂を握りしめた。声は細く、まだ夜の恐怖を帯びていた。
「恐ろしゅうございます。けれど……どうか、私をお傍に置いてくださいませ」
霧の向こうで水鳥が一声鳴いた。
国豊はその声を聞いてから、ようやく妻の背に手を回した。
その夜、香取氏の使者として五月の父・香取道連が舟を寄せ、国豊の前に座した。
「この浮島に襲撃があったと聞いた。何者の仕業か、目星はついておるか」
道連はしばし国豊を見据えた。燭台の火が小さく揺れ、板戸の外で水が鳴った。
「この常陸国で、私を消して益を得る者は一人。維幾殿を措いて、他にございませぬ」
道連は、怒りを政の顔の奥へ押し込めるように頷いた。
「夜陰に流海を渡り、この要害へ忍び込む。並の賊ではない。
――常陸介の差し金であろう」
声は静かだったが、言葉の端に刃があった。
国豊は膝の上で拳を固めた。
「ならば明日、国府へ参ります。維幾殿の面前で糾してみせましょう」
道連は顔色を変え、鋭く首を振った。
「ならぬ! 国府へ入れば、帰れぬと思え。捕らえられるか、口を封じられるか。もはや国府に道理はない」
道連は娘の震える手を包み、それから国豊へ向き直った。
「我ら香取は、国豊殿を支える。――だが、香取だけでは足りぬ」
国豊の膝の上の拳が、ゆっくりとほどけた。
「――いずれの御方を頼るべきでしょう」
道連は燭台の火へ目をやり、声を一段落とした。
「下総の小次郎将門殿だ」
――その名は、政としてではなく、燭光のように国豊の胸を打った。
幼い頃、忠平の屋敷で親しみ、兄とも慕った小次郎将門。その偉丈夫の大きな背を、国豊はいまも覚えていた。
国豊は、懐かしさと畏れの入り混じった声で、その名を繰り返した。
「――将門殿」
道連はすぐには答えず、杯の縁に指を置いた。
「維幾の背後には、源護の縁者、平国香がおる。将門殿とは浅からぬ因縁を持つ。一方で、大国玉の平真樹殿、古族の県犬養氏は、己の娘を将門殿に嫁がせておる」
道連は杯から指を離し言葉を継いだ。
「香取、県犬養、大国玉――その縁を辿れば、将門殿へ届く」
国豊はしばらく黙っていた。
やがて、五月の手を握ったまま言った。
「常総の縁を束ねよ、ということですな」
道連は頷いた。
「そうだ。維幾に抗うには、もはや一族一門の力では足りぬ」
――国豊は、坂東の諸縁を結び直す道を選んだ。反撃の烽は、この常総の縁を辿って、将門へ火種を散らし始めていた。
奇しくも浮島襲撃と刻を同じくして、大国玉の平真樹は、筑波山麓で水をめぐる別の火種に苦慮していたのであった。




