夜陰の刃
月は厚い雲に隠れ、風もなく、常陸の湿地は息を潜めていた。草木のざわめきすら途絶え、ただ闇だけが濃く沈んでいる。
義宗は、騎馬兵の先頭に立ち、低く呟いた。
「……ここから先、騎馬は進めませぬ。為憲殿は兵を伏せ、ここでお待ちくだされ。我が手勢二人を伴い、浮島へ侵入いたします」
為憲が眉をひそめる。
「――三人だけか?」
義宗は静かに頷いた。
「舟も小さいほどよい。暗殺に人手は不要。軽装で、影のように動くのが肝要にございます。万一の際は、こちらの騎馬兵が殿を務めますゆえ……疾くお逃げください」
為憲は、胸の奥がざわりと揺れた。
「義宗。汝に任せる」
義宗は深く頭を垂れた。
三つの影が音もなく舟に乗り込み、闇の海へと滑り出した。海霧が薄く漂い、舟の輪郭を呑み込んでいく。香取海を渡る小舟は、水面を切る音すら立てぬほど静かに進んだ。やがて、浮島の裏手にある古い舟着き場が見えた。
義宗は手を上げ、軽く下ろす。
――その瞬間。
見張り台の物見の額に、闇から放たれた矢が深々と突き刺さった。物見は声を上げる暇もなく、崩れ落ちた。
「……音を立てるなよ」
義宗の囁きに、二人の影が頷き、闇に溶けるように散開した。
裏手の見張りに近づいた義宗の兵が、侍の口を塞ぎ、喉を一息に掻き切る。血の匂いだけが、湿った夜気に溶けた。
義宗は頷き、館の裏手の板戸に手をかけた。
――ギ……ッ。
わずかな軋み。
だが義宗は動きを止めない。
(……この程度なら、気づかれぬ)
板戸を押し開け、闇の中へ滑り込む。
寝所はすぐ先。国豊の寝息が、かすかに聞こえる距離。
義宗は短刀を抜いた。刃が月光を受け、青白く光る。
(これで終わりだ)
義宗は寝所の襖に手をかけ――
その瞬間。
――ギィ……ッ。
背後で床板が鳴った。
義宗の背筋が凍りつく。
(……誰だ)
振り返る。
そこに立っていたのは、国豊の妻・五月であった。白い衣をまとい、灯火を手に、義宗を真っ直ぐに見据えている。その瞳に宿るのは、恐れではなく静かな怒りだった。
「……何者ですか!」
義宗は一瞬、刃を向けようとした。
だが――五月は怯むことなく、館中に響き渡る大声で叫んだ。
「痴れ者じゃ――出会え――!!」
その声は甲高く、闇を裂く雷のようだった。
義宗は舌打ちし、影たちに合図を送る。
「退け!!」
影たちは一斉に散り、それぞれの退路へ走った。義宗は最後に寝所の襖を一瞥した。その目に悔しさはなく、どこか自嘲めいた光が宿っていた。
義宗は退路を駆けながら、浮島の地形を思い返していた。潮流、海霧、断崖、湿地――すべてが侵入者を拒む“牙”となる島。
(……やはり、浮島は攻めるべき島ではない)
義宗の胸に、冷たい確信が宿った。
(……ここは、昼間に下見を済ませてある)
義宗は、館の裏手にある細い通路へ身を滑らせた。そこは、昼間でも薄暗く、夜ともなれば完全な闇に沈む“影の道”。義宗は、その道を迷いなく駆け抜けた。撤退経路は、襲撃に失敗した場合に備えて、あらかじめ確保してあった。
館の中から、怒号と足音が迫ってくる。
「賊だ! 逃がすな!」
義宗は走りながら、耳だけを後ろへ向けた。
(……三、いや四名。足音が重い、鎧を着ている。こちらに追いつく速度ではない)
義宗の耳は、獣のように敏かった。追手の人数、装備、距離――すべてを音だけで読み取り、さらに速度を上げる。
館を抜けると、香取海から立ち上る海霧が、白い壁のように広がっていた。普通の兵なら、ここで方向を見失い、霧の中で迷う。
だが義宗は違った。
(……潮の匂いが北から。風はない。ならば、舟着き場は――こちらだ)
義宗は、霧の中を迷いなく進んだ。まるで、霧の向こうに道が見えているかのように。これこそが、壬生義宗が“闇の棟梁”と呼ばれる所以だった。
霧の中で、突然、影が動いた。
「いたぞ――!」
追手の侍が、霧の中から飛び出してきた。
義宗は、一歩も止まらずに短刀を抜いた。
――シュッ。
霧の中で、刃が一閃した。侍は声を上げる暇もなく、喉を押さえて崩れ落ちた。
義宗は振り返りもせず、霧の奥へ消えた。
(……声を上げられなかったのは幸い)
その判断すら、一瞬のうちに済ませていた。
霧が薄くなり、古い舟着き場が見えた。そこには、義宗の手勢の二人がすでに待っていた。
「義宗殿!」
「よい、乗れ」
義宗は舟に飛び乗り、二人に合図した。舟は、音もなく水面を滑り出した。背後では、館の灯火が揺れ、追手の怒号が響いていた。だが、霧と潮流がその声を呑み込み、やがて何も聞こえなくなった。
義宗は、静かに息を吐いた。
(……国豊の妻女は、存外、肝が据わっておったわ)
その目には悔しさではなく、どこか愉悦すら混じっていた。“次は必ず仕留める”――その決意が、闇の中で静かに燃えていた。




