縁結ぶ朝
この謀議と前後して、浮島の館では国豊の婚儀の話が持ち上がっていた。この地に根を張るには、有力な他家との紐帯を強めることが避けられなかった。――鹿島、行方、香取、真壁。近隣の有力豪族から国豊に嫁を迎えるべし――という話である。
国豊もそれは理解している。姻戚関係を結ぶことは政であり、在地豪族の宿命でもあった。
――だが、国豊の胸の奥には、どうしても消えない“ひとつの面影”があった。
常陸に下向して以来、海沿いのある村の前を、何度か馬で通り過ぎた。そのたびに目に入ったのは、童子たちに囲まれて遊ぶ、ひとりの娘。白い指先で子らの髪を撫で、転んだ子を抱き起こし、時に自分の袖を破ってまで手当てをする。
――名も知らぬ娘。砂塵舞う東国の荒野で、その姿だけが、ひときわ澄んだ泉のように輝いていた。その面影が、ふと胸の奥で揺れた。
国豊の婚姻話は、浮島の館で静かに進められていった。在地領主として下総と常陸の両国にまたがる権益を有する香取氏の家中に年頃の娘がいるという。
名を「五月」という。香取神宮の在地神官であった大中臣姓の香取連が有した神郡や社領の支配を起源とする名家であり、家格も申し分ない。浮島では、一族郎党から家人に至るまで、皆が心を躍らせ、家中は沸き立った。
やがて、婚礼の日取りが決まった。
国豊は、「これは採るべき戦略の一つである」と、自らに言い聞かせて淡々と準備を進めた。
婚礼の日、浮島の館は朝から厳かな緊張に包まれていた。
国豊は白絹の衣を纏い、静かに庭の松を眺めていた。春の風が湖面を渡り、白い霧がゆっくりと晴れていく。その景色は、まるで新たな縁を迎えるために天地が息を吹き返したかのようであった。
やがて、香取の家からの舟が浮島に到着した。
白い幕が揺れ、花嫁の輿がゆっくりと道を進んでくる。館の者たちは息をのみ、慶びに色めき立ちながら、新婦のお目見えを今か今かと待ちわびていた。
朱塗りの輿の青竹の御簾が静かに引き上げられると、白繭のような衣に包まれた清廉な花嫁の姿が立ち現れた。一筋の陽光に照らし出された美貌は、まるで雪の精であるかの如く匂い立った。
――その瞬間、国豊の胸に、あの海沿いの村の光景が蘇った。
花嫁もまた、国豊を見て、驚きと喜びが入り混じったように僅かに目を見開いた。
この時、この婚姻は政でなく、運命へと姿を変えた。
婚礼の儀が終わり、夜の帳が静かに降りる。浮島の館の奥、灯火が揺れる部屋に、国豊と花嫁は向かい合って座した。それまで互いに名も知らぬまま、心だけをさざ波のように重ねていた二人。
花嫁は、静かに手を膝に置き、国豊の言葉を待っていた。
「……あの日、海沿いの村で見かけた娘が、まさか、其方であったとは」
花嫁となった五月は、そっと微笑んだ。
「わたくしも……馬上から村を通り過ぎるお姿を、何度かお見かけしておりました」
その言葉に、国豊の胸の奥で何かがほどけた。
政のための婚姻ではない。これは、縁が導いた婚姻なのだと、国豊は静かに悟った。
五月は、国豊の手にそっと触れた。
その夜、二人は多くを語らなかった。ただ、お互いの存在が、これからの荒波を越えるための唯一の灯火になることを、静かに感じ取っていた。
この婚姻は、浮島にとっては西方対岸への牽制を強め、香取の家にとっては新たな力を得る契機となった。やがて、常陸南部から下総との国境近郊にかけての勢力図は、塗り替えられていくことになる。




