堕落の貴種
「忠平卿……なぜ、奴の口から卿の御名が出た……」
維幾の声は、かすれ、喉の奥で震えていた。
――国豊の背後に左大臣・藤原忠平の影がある。その可能性を思うだけで、胸の内に冷たい刃が突き立った。
「民どもの怨嗟の声が、もし忠平卿の御耳にでも届けば……我らは詮議を免れぬ。不正を暴かれでもしたら、我が一門は破滅だ……」
灯火の炎が揺れるたび、維幾の影は壁に歪み、まるで自らの断末魔を映すかのように伸び縮みした。その影を見つめるうちに、不安と焦燥がじわじわと心の底から這い上がり、思考を蝕んでいく。
(国豊は、どこまで掴んでいるのか……見当もつかぬ……)
為憲がそっと近づき、低く諫めた。
「父上、弱気は禁物です。手遅れになる前に手を打てば――」
「汝は黙っておれ!」
怒声は上がったが、その響きは震え、恐怖の色が濃かった。怒りの皮をかぶった恐怖が、維幾の口から噴き出していた。やがて維幾は口を閉ざし、灯火を見つめる。炎は細く揺れ、まるで未来の行く末を暗示するかのように頼りない。為憲は、壊れ始めた父の心に苛立ちを覚えた。
――そのとき、維幾の目に、ふと異様な光が宿った。
「……良い策を思いついた」
扇を軽く打ち鳴らし、維幾は急に声を張った。その声音には、策を弄する者の慢心と、恐怖を押し隠す虚勢が入り混じっていた。
「我らは姻戚の紐帯で強く結びついている。ならば――国豊とも姻戚となり、懐に入れて手懐ければよいのではないか」
何度も、独り満足げに頷きながら、維幾は自らの思いつきに酔いしれた。
「我が娘を国豊に嫁がせれば、奴も我らの与党となろう。娘ひとりで済む話よ。もはや軍馬を動かすまでもない。……いや、このように容易なことに、これまで気づかぬとは」
その薄笑いは、才を誇る者のそれではなく、追い詰められた者が見せる危うい笑みであった。――国豊を殺せば、忠平卿に“不正隠匿のための排除”と疑われる。しかし野放しにすれば、いずれ己の地位を脅かすのは明白。その矛盾が、維幾の心を締め上げていた。
為憲は、父の言葉に眉を顰めた。
「ここで大掾を亡き者とせねば、いずれ後悔することになりますぞ」
その声には、国豊の才覚と人望を恐れる冷徹な洞察が宿っていた。
だが維幾は、鼻で笑った。
「義と利の間に挟まれれば、奴は義に傾く。だが――義と情に挟まれれば、人は情を取る。国豊もまた、凡庸な“人”に過ぎぬ」
為憲は、その言葉の裏に潜む“密やかな怖れ”を感じ取った。
維幾は、虚勢を張るように胸を張った。
「汝らの頭には覇道しかないのか。我は王道……いや、帝道を探っておるのだ。汝も、この父を見習うがよい」
そして、満足げに頷いた。
「では、その方向で事を運ぶとしよう」
その一言で、国豊を巡る“姻戚策”は動き出した。
灯火の炎は、なお細く揺れ続けていた。だが、その揺らぎは、維幾の心の奥底に潜む“崩壊の兆し”を静かに照らし出していた。




