不動倉
国衙(国司庁)の広間には、朝の冷気がまだ残っていた。国豊は、常陸国司の実質的な長である藤原維幾の前に進み出ると、畳に膝をつき、深く頭を垂れた。
維幾は、扇を軽く動かしながら国豊を眺めていた。若い。まっすぐすぎる。しかも、その背後には京の大きすぎる名がある。からかうだけで済む相手かどうか、維幾は値踏みしていた。
「大掾殿も、坂東の風土にずいぶんお染まりのご様子。忠平卿の御威光を背にした若き判官としては、まこと頼もしい限りですな」
国豊は皮肉を受け流し、まっすぐに頭を下げた。
「恐れ入ります。本日は、申し上げねばならぬ儀があり、参上いたしました」
維幾の眉がわずかに動いた。面倒な話の匂いがする、とその胸中が先に身構える。
「ほう。大掾殿のご高見、しかと承りましょう」
国豊は息を整え、静かに語り始めた。
「先日、我が所領が近隣の土豪らに侵されました。幸い退けることはできましたが、捕らえた者どもの申すところ、彼らは飢えに追い詰められ、命をつなぐ米を求めていたに過ぎませぬ」
「それはそれは。大掾殿は、賊の腹具合にまで御心を砕かれるか」
維幾は扇を止めた。
国豊は続ける。
「国司とは、律令に従い、正しく税を徴し、民を守るために置かれた職と存じます。されど、官吏の中には定めを越えて米を取り立てる者がございます。過分に集めた米は民へ戻し、飢えた者が他家の所領へ手を伸ばさずに済む道を開くべきです」
維幾の目が細くなった。きれいごとを申す、と思った。だが、そのきれいごとの底に、こちらの倉の内実を探る刃が隠れているようにも見える。
「して、忠平卿の御寵をいただく大掾殿は、国司たるこの私に、どのような沙汰をお望みで?」
国豊は、迷いなく答えた。
「不動倉を開き、米を民へお施しください。飢えこそが争いを生みます。民が飢えずに済むなら、他家の所領を侵すこともなくなりましょう」
維幾は、しばし国豊を見つめた。
(大掾は、不動倉が空であることを知っていて、申しているのではないのか?)
驚きと疑念が顔に出かけた瞬間、維幾は扇の陰に薄笑いを作った。ここで狼狽を見せれば、若造に足元を見られる。
維幾は、国豊の訴えを聞き終えると、扇をぱたりと閉じ、冷ややかに言い放った。
「ならぬ。
不動倉の米は、受領交替に際して引き継がれるべき公の財である。それを国巣どもへ気前よく撒けとは……大掾殿、判官の身にありながら、ずいぶんと危うい沙汰を口になさる」
(――私を、公に背く者と言いたいのか。)
国豊の胸に、怒りがこみ上げたが、それを押し殺し、静かに頭を下げた。
そして顔を上げると、どこか澄み切った声で言った。
「では――摂政、左大臣・藤原忠平卿のご裁可を仰ぐことといたします」
維幾の扇が、手から滑り落ちた。
「な……何と仰せか。いま、誰の御名を申された」
維幾は、座していた胡床からずるりと後ろへ転げ落ち、慌てて体を起こした。
その顔から、先ほどまでの余裕は消えていた。青ざめた頬の下で、維幾は必死に損得を数えているように見えた。
国豊は、あくまで無邪気な声音で続けた。
「忠平卿は慈愛深き御方であり、我ら藤原一門の長者でもあらせられます。末に連なる私が、民を救う願いを申し上げれば、きっとお聞き届けくださりましょう」
維幾の喉が、ごくりと鳴った。
「や、やめられよ……! 卿の御名を、そのように軽々と持ち出すものではない……!」
国豊は、首をかしげた。
「軽々しくなどございませぬ。民は飢えております。律令にも、飢饉の折には不動倉を開くべしとあります。国司殿が開けぬと仰せなら、太政官へ伺いを立てるのが道理にございましょう」
維幾は、しばし口をぱくぱくと動かしたが、言葉が出てこない。
――国豊は、静かに続けた。
「私は、国司の判官として、正しきことを正しき形で行いたいだけでございます」
その声音は、あまりに純粋で、あまりに真っ直ぐだった。
維幾は、ようやく声を絞り出した。
「よい……もうよい……大掾殿、本日のことは聞かなかったことにしておく。二度と摂政猊下の御名を盾にするでない……!」
国豊は深く頭を下げた。
(この男もまた、己の利に従っているだけか……)
広間を辞した国豊の背に、維幾の荒い息遣いがいつまでもつきまとった。国豊はそれを勝利とは思えなかった。ただ、正しさを口にすることもまた、ひとつの戦なのだと知った。




