黒き岐路
「……なんだと。大掾が勝手に嫁を迎えた、だと?」
報せを聞いた瞬間、常陸介・藤原維幾の手から扇が滑り落ちた。
その顔に浮かんだのは怒りというより、むしろ狼狽の色であった。
「それでは我が“帝道”は、端から成り立たぬではないか……!」
維幾の声は震え、言葉は自らの喉に絡みつくようであった。
自らが描いた姻戚という名の懐柔策は、脆くも崩れ去ったのである。
沈黙を破ったのは、為憲だった。
「では、“王道”を歩むほかありますまい……。」
その声音は静かで、冷たかった。
「知略を尽くし、密かに葬るのです――前の大掾と同じように。朝廷には病死として届け出れば良い。」
維幾の目が大きく見開かれた。
「な、なんだと? ……いま汝は何と言った? 前の大掾は……病死と……」
為憲は、まるで “何を今さら” と言わんばかりに、僅かに眉を動かした。
「あの者は……官物横領だと騒ぎ立て、勘解由使に讒言するとまで仄めかしたのです。だから、誅殺したのですよ。」
言い終えると、為憲は父に向き直り、“どうだ”と言わんばかりの薄い笑みを浮かべた。
「私が前の大掾を始末したお陰で、常陸国は安寧を得られたのですぞ。」
維幾は、息を呑んだ。
怒りよりも、驚愕よりも、胸の奥に冷たいものが広がった。
――いつの間に、この子は、これほどの闇を宿すようになったのか。
その思いが、維幾の肩を重く沈ませた。
「……よい。汝に任せよう。我が後を継ぎ、一門を託す先は汝しかおらぬ。」
その声には、父としての情よりも、“諦念”が滲んでいた。
「……我は休む。あとのことは壬生氏と相談せよ。」
そう言い捨てると、維幾は奥へと引きこもってしまった。
維幾が奥へと姿を消すと、急に冷えたような静けさが落ちた。
為憲は、父の去った方角を一瞥しただけで、何事もなかったかのように扇を畳んだ。その横顔には、怒りも焦りもなく、ただ底知れぬ闇だけが沈んでいる。
為憲は、静かに、しかし底冷えする声で呟いた。
「国豊は殺す。なんとしても、だ……」
その目には、嫉妬と恐れと、そして“自分より優れた者を許さぬ”歪んだ執念が宿っていた。
「奴は、人の心を掴むことに長けている。このままでは誰も我らには追従てこなくなる。政の秩序を脅かす者を、我は許さぬ。如何なる手段を用いても“利”を取ればよい。」
為憲は、ふと笑った。
「前の大掾も死ぬ間際に、我に泣いて命乞いをしたわ。それが人というものだ。」
その笑みは、人の情を欠いた“冷たい闇”そのものだった。




