宿星の邂逅
牛車は正門を抜け、西の対屋へ続く廊の脇で静かに止まった。ここに来れば、もう後戻りはできない。母と別れたときの感触が、まだ手のひらに残っている気がした。――胸の奥が、かすかに締めつけられる。
「藤の若君、到着だ。そこの軒先で降りられると良い」
国豊はその声に、はっと胸を震わせた。
御簾を押し上げると、外の光が容赦なく差し込み、幼い瞳が一瞬、白く染まった。眩しさが引いたとき――そこに黒々とした巨大な影を見て、国豊はぎょっと息を呑んだ。
――背丈、七尺余。
まるで大人二人の影が一つに重なっているかのような偉丈夫が屹立していた。
浅葱の狩衣が風に揺れるたび、鍛え抜かれた鋼のような筋肉が衣の下でうねる。日に焼けた肌は黒鉄のよう、肩は岩盤のように盛り上がり、腰に佩いた太刀は国豊の腕ほどもある。
その存在そのものが、都の優雅な空気とはまるで異質だった。だが、国豊の足をすくませたのは、その威容だけではなかった。
――重瞳。
烏帽子の影から覗く左眼は、光の加減によって、一つの眼球に瞳孔が二つあるように見えた。古来、「英雄の相」「王者の相」と信じられてきた異形である。かつて中華の英雄・楚王項羽が重瞳の相であったという伝説があるが、もちろん七歳の国豊が知る由もない。
国豊は凍り付き、大いに畏怖した。
(……こわい。)
「人ではないもの」を見たような恐ろしさに、震えが止まらない。
若武者は、じっと国豊を見つめていた。
やがて、わずかに口元を緩める。
「……心配するな」
低く、地の底から響くような声。
国豊の喉が、ごくりと鳴った。牛車の踏み台に足をかけようとするが、足が思うように動かない。
「……困ったな。其方を取って食ったりはせぬ」
その声に、国豊の胸はさらに強く震えた。
国豊はようやく、震える足を動かし、牛車の踏み台へと降りた。
若武者は、「相馬小次郎」と名乗った。
「卿に世話になっている者だ。この屋敷にも出入りしている。坂東で生まれ育ったからな、都の人間と少し違うかもしれん。……いずれまた、相まみえることもあろう。」
その声音には微かな誇りが滲んでいた。
国豊は思わず問いかけた。
「……坂東の武士、なのですか」
小次郎は一瞬だけ目を細めた。
「そうだ」
短い一言に、余計な飾りはない。ただ、それが己の在り方だと知る者の、静かな確信があった。
小次郎もまた、国豊を見ていた。まだ幼い。華奢で、白い手。都の御曹司らしい柔らかさ。だが、その瞳は怯えた色を映しながら、真っ直ぐ逸らさない。
小次郎の胸には、かすかな興味が灯った。
「ではな、藤の若君」
小次郎は踵を返した。牛の手綱を取り、北の車宿へと歩き出す。
白砂の庭に、浅葱色の巨大な影が遠ざかっていく。
やがて、家司に導かれ、国豊は西対の広い母屋の一角へと通された。
そこには、忠平卿が静かに座していた。国豊は思わず膝をつき、深く頭を下げた。
忠平はゆっくりと立ち上がり、歩み寄って国豊の肩に手を置いた。
「よく来た。今日からは、ここがおまえの家だ」
忠平はそう言うと、初めて国豊と出会ったあの日と同じように、その頭を撫でた。
その掌の温かさは、幼い日の記憶と違わぬものだった。同時に、寂しさが、ゆっくりと溶けていくようでもあった。
「覚えておるか。あの日、宇治の風の音を真似て笛を吹いてみせたな」
「……はい。忘れたことはございません」
宇治の山の匂い、母の手の温もり、別れの日の涙、そして今日、都の薄桃色の光に包まれた道のり――すべてが胸の奥でひとつに溶け合っていく。
ここから始まる新しい日々が、どれほど大きな運命を呼び寄せることか、まだ幼い彼には知る由もなかった。




