祭祀の夜
そして、夜――。
浮島は、海霧に包まれていた。海は黒く、空は低く、島全体がひとつの巨大な“器”になったようだった。波の音が遠くで響き、風は湿り気を帯びて、どこか生き物の息のようだった。
その日は、信太浮島の地に古くから伝わる祭祀の日だった。
兼遠に連れられて辿り着いたのは、浮島の中央にある古い環状の祭場。古びた石剣が円を描き、鏡、玉、比礼が並べられていた。物語で聞いたことのある“古の神宝”が、目の前に実在している。
十種神宝――国豊は息を呑んだ。
「若君、今夜は“鎮魂”だ。汝の背には忌むべき影が憑いている。物部の血を継ぐ者が、神宝の霊威を鎮め、汝の影を祓う夜となる」
兼遠の声は低く、その言葉に国豊の胸がざわついた。
中央には火床が据えられている。すでに一族の男たちが集まっていた。腰布一枚、身体には白い土と朱の線が描かれ、その姿は人というより、荒ぶる野獣のようだった。
古代から物部は、武と祭祀の氏族だ。だが、その祭祀は、京の優雅な祭礼とはまるで違う。
酒の匂いが濃い。男たちは酒を回し飲みし、火床の周りを走り出す。火床の炎が揺れ、男たちの影が巨大な妖のように国豊に迫ってくる。
太鼓が鳴り始めた。どこか原始的で、心の臓の鼓動と同期しているかのようだ。
最初はただの走りだった。だが、酒と熱と太鼓が重なるにつれ、走りは跳躍に変わり、跳躍は舞に変わり、舞は狂気を帯びていく。
酒が回り、男たちが“変わる”。裸の身体が火に照らされ、汗と酒が飛び散り、叫び声が夜空を裂く。
「おおおおおおおおッ!」
国豊は生まれて初めて目にする物部の祭祀に、身を震わせた。
これは、荒ぶる坂東武者の禊であり、魂の鍛錬だ。
兼遠が火床の前に立ち、十種神宝を一つずつ掲げた。鏡が火を反射し、玉が脈動し、比礼が風もないのに揺れる。
男たちの動きが止まった。その瞬間、火床の炎が青白く変わった。風が逆巻き、地面が震え、空気が重く沈む。
国豊の背筋に冷たいものが走る。
火床の上に、黒い影が揺らめきながら現れた。
形は定まらず、人のようで人でなく、獣のようで獣でもない。
男たちが一斉に叫ぶ。
「祓えッ! 鎮めろォッ!」
火床の周りでは、物部の男たちが完全に“戦う霊”と化していた。酒を浴び、火に近づきすぎて髪を焦がし、裸の身体に朱と白の線が浮かび上がる。
狂ったように太鼓が鳴り響く。男たちは火床を囲んで跳び、叫び、踊り、地面を踏み鳴らす。
「ふるべッ!ゆらゆらとッ!ふるべェッ!」
兼遠が石剣を掲げ、十種神宝が火の光を反射する。
影が現れ、影が裂け、影が逃げる。
動の極致。兼遠が石剣を地に突き立て、両手を広げて叫んだ。
「ひと・ふた・み・よ・いつ・む・なな・や・ここの・たり――ふるべ・ゆらゆらと・ふるべッ!」
その声は、太鼓よりも、火よりも、影よりも強かった。
男たちが一斉に応じる。太鼓は乱れ打ち、男たちは裸に近い姿で酒をあおり、火の粉が舞い、神前では鹿の血が撒かれた。
「ふるべッ!ゆらゆらとッ!ふるべェッ!」
火床の炎が爆ぜ、影が後退し、玉が光を放つ。炎が天へ伸び、夜空に光の柱が立つ。男たちが歓声を上げ、太鼓が狂ったように鳴り響く。
影は消えた。祭りは終わった。




