荒星
翌朝、国豊が馬場に向かうと、兼遠はすでに立っていた。長い黒髪を風に揺らし、欠けた指の右手で弓を弄んでいる。その姿は、朝靄の中に溶け込んだ一本の影のようであった。
「まずは馬だ。」
兼遠が言うと、下僕が荒馬を一頭、引いてきた。毛並みは粗く、目は血走り、鼻息は咆哮のように荒い。京で国豊が乗り慣れた駿馬とは、まるで別の生き物である。
この馬は、人に従う気など毛ほどもない。野を駆け、風と争い、己の力だけを信じて生きてきた獣であった。
「……乗れ。」
国豊は一瞬ためらったが、すぐに鞍に手をかけた。
兼遠は無言でその様子を見つめている。馬に跨がった瞬間、兼遠が低く言った。
「ここでは馬が主だ。坂東では裸馬に乗れぬ者は、疾く死ぬ。」
国豊が返事をするより早く、兼遠は馬の尻を軽く叩いた。荒馬は跳ね上がり、暴れ、国豊の体を激しく揺さぶった。次の瞬間、国豊の体は宙に放り出され、地面に叩きつけられた衝撃で息が詰まり、視界が白く揺れた。馬はなおも暴れ、砂を蹴り上げて走り去った。国豊は歯を食いしばり、ゆっくりと立ち上がった。
兼遠が歩み寄り、国豊を見下ろす。
「もう一度だ。」
その声は震えていなかった。
兼遠はわずかに目を細めた。
「よかろう。倒れても立つ、それが武技の始まりだ。」
その日、国豊は十度以上、馬に振り落とされた。体は痛み、手足は砂にまみれ、京での優雅な日々は遠い昔のように思えた。
兼遠は、その姿を黙って見つめていた。
いったい何度、地面に叩きつけられたか分からない。国豊はしばらく地面に手をついたまま動けなかった。体の痛みよりも、胸の奥に沈む敗北感が重かった。
(私は……本当に、この地で生きていけるのか)
それでも、夕暮れには、荒馬の背にしがみつき、わずかに走らせることができるようになっていた。
砂を踏む音が近づく。荒馬は荒い息を吐きながらも、国豊のほうへゆっくりと歩み寄ってきた。国豊は顔を上げた。血走っていた馬の目も、どこか疲れたように揺れている。
夕陽が馬場を赤く染め、風が草を揺らす音だけが響いていた。
互いに必死で、互いに不器用で、互いに譲れぬものを抱えていた。この馬もまた、見知らぬ男に無理やり乗られ、必死に振り落とそうとしていたのだ。
国豊はゆっくりと手を伸ばした。馬は一瞬、眦を吊り上げ、耳を伏せた――が、逃げなかった。指先が荒れた毛並みに触れる。その瞬間、国豊の胸に、言葉にならぬ温かさが灯った。
(そうか。お前も坂東で生きてきたのだな……)
少し離れたところで見ていた兼遠が、夕陽を背に歩み寄ってきた。
「ようやく……馬が、汝を見たな。」
国豊は驚いて振り返った。
馬は国豊の手にそっと顔を寄せた。それは、ほんのわずかな、しかし確かな赦しであった。
夕暮れの馬場には、昼の熱気がまだ残っている。緩やかな風が吹き抜け、その熱気と共に、刈敷の芳香を運んでいった。
荒馬は、互いの息遣いが触れ合う距離に立つことを、もはや拒まなくなっていた。
国豊は馬の首筋に手を置いた。荒れた毛並みの下には、坂東の風をそのまま閉じ込めたような熱があった。
(お前と私は、今日、初めて同じ地平を見たのだな)
その思いが胸に満ちたとき、国豊はふと、かつて将門から聞いた言葉を思い出した。
――名とは、魂を呼ぶものだ。
国豊は馬の顔を見つめ、静かに口を開いた。
「……お前に名を、与えよう。」
馬は耳を動かし、国豊の声に応えるように鼻を鳴らした。
「――荒星」
国豊は、この地に来てから感じ続けていた荒々しい風、湿った土の匂い、そして坂東の空の広さを思い浮かべた。
「荒ぶる星。坂東の空を駆ける、お前に相応しい。」
その名を口にした瞬間、馬がわずかに首を振った。それは、この地で初めて交わされた小さな誓いのようであった。
少し離れた場所で見ていた兼遠が、ゆっくりと歩み寄ってきた。
国豊は驚いて振り返る。
兼遠は荒星のたてがみを一度だけ撫で、低く言った。
「……名を与えるのは、生きる覚悟を示すことだ。名を呼べ。呼べば、馬は応える。それが坂東の馬と人の絆だ。」
国豊は馬の首に手を置き、夕暮れの空に向かって静かに呼んだ。
「……荒星」
馬は、まるでその名を確かめるように、一度だけ高く嘶いた。
荒星の嘶きは坂東の空に吸い込まれ、国豊の胸に深く刻まれた。




