弓馬の道
下野国境での賊の追討を終え、浮島に戻って数日が過ぎた頃、国豊は祖父・安広の命を受け、裏手の馬場へ向かった。朝靄が薄く漂い、湿り気を帯びた馬場には人影ひとつ見えぬ。国豊は弓を手に取り、静かに的へ歩み出た。京で鍛えた型は、いまも身に染みついている。
呼吸を整え、弦を引き、放つ――。
矢は的の端をかすめ、乾いた音を立てて刺さった。
「……弱いな」
背後から、かすかな笑い声がした。
国豊が振り返ると、馬場の端、古い柵にもたれるようにして長身の男が立っていた。朝靄に沈むその姿は輪郭ばかりが細く、切れ長の目だけが妙に鋭い。国豊は、その視線に射られたような居心地の悪さを覚えた。
「どなたでしょう。人の稽古を物陰よりご覧になるとは、いささか礼を欠くのではありませんか」
国豊が詰め寄ると、男は肩をすくめた。
「覗いちゃいない。外すと分かっていた。だから見ていた」
挑発するように首を傾げる。
国豊は眉をひそめ、男の右手に目をやった。中指が、第一関節から欠けている。
「そのお手で、弓をお語りになるのですか」
国豊が鼻で笑うと、男は静かに言った。
「指一本で、弓は忘れん」
男は国豊の弓を奪うように取り上げ、欠けた指を巧みに使い、弦を引き絞った。その動きは舞のように滑らかで、矢を放つ瞬間、朝靄の空気がぴたりと止まったかのようであった。
矢は一直線に飛び、国豊が外した的の中心を、音もなく射抜いた。
国豊は息を呑んだ。
男は弓を返しながら、淡々と言った。
「物部兼遠。安広殿の命だ。今日より、若君に弓と馬を叩き込む」
その声音は乾いていた。名乗りにも誇りにも聞こえるのに、どこか深いところで、すでに多くを諦めた者の響きが混じっている。
国豊には、その影の底までは見えない。ただ、この男の言葉を軽んじてはならぬということだけは分かった。
稽古の合間、国豊は兼遠の右手を見つめた。欠けた中指――弓を引くには致命的なはずである。
「その指は……どのようなことがあったのです」
兼遠はしばらく沈黙し、湖水の向こう、遠くの嶺を見つめた。その横顔には、長い歳月を経た者だけが持つ、静かな深みがあった。
「昔の主に落とされた。それだけだ」
国豊は息を呑んだ。
「昔の主とは……どなたのことですか」
兼遠は答えなかった。ただ、静かに弓を構え、矢を放つ。矢は風を裂き、遠くの木の幹に深々と突き刺さった。
「指が足りぬなら、腹で引け。弓は、残ったもので射るものだ」
国豊は、その一言が技ではなく生き方を語っているのだと感じた。欠けた指を隠さぬ横顔に、痛みよりもなお強い矜持が残っている。
何を失ったのかは分からない。だが、失ってなお弓を捨てぬ者だけが持つ重さが、国豊の胸に残った。
その夜、安広が静かに語った。
「兼遠は、かつて下野の藤原秀郷に仕えておった。秀郷はお前と同じ藤原の血を引く者だが、兼遠にとっては昔の主であり、癒えぬ傷を残した相手でもある」
兼遠が名を避けた理由が、国豊にはようやく少し見えた気がした。
秀郷――国豊と同族。父は主上より掾の官を賜り、下野国に任ぜられていた。
それでも秀郷は、強欲で傲慢な男として恐れられていた。土豪を力でねじ伏せ、村を襲い、奪い、殺す。民の暮らしよりも己の利を優先する男だった。
――かつて朝廷は、秀郷を賊徒として坂東五か国に追討を命じたはずである。
(朝廷から追われても、いまだその勢いは衰えぬか……)
思えば国豊は、昔から秀郷が苦手だった。小一条殿の政所へ向かう廊で、まだ背も低かった国豊に、秀郷は人を見る目ではなく、物の価を量るような目を向けた。
「下賤の妾腹から生まれ出た童が、なにゆえ、主上のおわす清涼殿に上る」
その言葉は、耳ではなく胸の奥に残った。忠平卿の庇護を受けていることが、自分を守る盾であると同時に、誰かの憎しみを呼ぶ印でもあるのだと、幼い国豊はそのとき初めて知った。
兼遠の過去と、自らの宿命が、どこかで静かに結びつき始めていることを、国豊はまだ知らなかった。




