鮮血の境
翌日、常陸国府の中門前に、浮島の郎党が泥を跳ね上げて駆け込んできた。
息は乱れ、額には汗が滲んでいる。門番が止める間もなく、男は膝をついた。
「国豊さま! 信太と行方の郡境で盗賊が荷を奪い、行方郡司が追捕に向かっております!」
国豊は一拍も置かず、必要な手順だけを切り分けるように命じた。
「馬を。手勢はすぐ出す。小掾殿は国府の兵を五名、急ぎ集めてください。我らは先に行きます」
季道が震える声で言った。
「大掾さま……お気をつけください……行方郡司は、維幾さまのお身内です……」
国豊は、季道の恐れを受け止めながらも、迷いを見せぬ微笑を浮かべた。
「行方郡司には、合流すると伝えてください。心配はいりません。私は民を守りに行くのです」
国豊は、都から伴ってきた芦毛の馬に跨った。蹄が乾いた土を蹴るたび、荒野の草が低く裂ける。
背後で国府の兵の具足が鳴り、前方には常陸・下野の境へ続く道が、鈍い光を帯びて伸びていた。
盗賊たちは、国境付近の雑木林の手前で足止めされていた。荷は散らばり、賊の影が木々の間を走る。行方郡司の旗は、まだ見えない。
(郡司は、まだ到着しておらぬか……)
国豊は、情に流される前に、まず被害を止める道筋を定めた。
「捕らえる。殺すな。右は郎党、左は国府の兵。私は中央を抜く。逃げ道だけを塞げ」
――盗賊が、矢を放つ。
国豊は馬上で身をひねった。弦が鳴る。放った矢は一本だけだった。
その矢は、賊の腕を正確に射抜いた。
「もう動くな。命までは取らない」
その静かな制止には無駄な脅しがなく、盗賊たちは逃げ道ではなく命の残る道を選ぶように、次々と武器を捨てた。
国府の兵が周囲を固め、残党を逃げ場のない場所へ追い込んでいく。
全員を捕縛し終えると、荒野に一瞬の静けさが落ちた。
風だけが草を撫で、縛られた盗賊たちは息を殺していた。
国衙兵の間にも、これで事は収まったという安堵がかすかに広がった。
その静けさを破るように、遠くから馬蹄の音が近づいてきた。行方郡司・壬生成宗が、手勢を従えてようやく現場に姿を現した。
「いやいやいや、大掾殿! これはまた、ずいぶんお早いお着きで」
成宗は、肥えた体を揺らしながら馬を寄せ、笑みの形だけを顔に貼りつけていた。
「壬生殿、すでに賊は捕らえましたぞ」
「お見事、お見事。都育ちのお方は、弓まで品がよろしい。いや、目の保養でございました」
細い目の奥では笑みが動かず、褒め言葉は刃を薄布で包んだように聞こえた。
「では、泥のついた後始末は、こちらの田舎者どもで片づけておきましょう」
成宗は笑みを崩さぬまま、背後の手勢へ目だけで合図し、低く命じた。
「――やれ」
次の瞬間、成宗の手勢が、縛られた盗賊の集団に一斉に矢を射かけた。
「何をする!」
国豊の声が、乾いた荒野を裂いた。
――盗賊は全員が、その場で絶命した。
成宗は鼻で笑い、血の匂いなど意に介さぬように首を傾げた。
「――はて」
「国府のお望みは、賊を減らすことでございましょう? 常陸介殿も、生かして帰すなと、たいそう分かりやすく申されておりますので」
その声音はへりくだった形を取りながら、内側では国豊を若輩と見下す棘を隠そうともしていなかった。
縛られた者を射殺してなお、成宗は眉一つ動かさず、草の上に広がる血をただ見下ろしていた。
「賊など、払っても払っても湧く虫でございます。数を減らすに越したことはありません」
成宗にとって、それは命ではなく、ただ始末すべき数でしかないようだった。
成宗は、細い目をさらに細め、一拍置いて、声を低くする。
「それにしても、常陸介殿のお許しもなく倉を覗かれるとは。若い方は、思い切りがよろしいですなあ」
国豊は一歩も退かず、成宗の慇懃な毒を正面から受け止めたうえで、声に鋼を帯びさせた。
「正倉は国の蔵、税として集めた品は民の飯だ。
大掾として確かめるのは当然だ。隠す者があれば、上へ申し立てる」
成宗の細い目の奥に、昏い炎が灯った。
国豊はその光から目を逸らさなかった。
かつて浮島の浜で国豊を試した潮風は、いま血の匂いを含んで二人の間を吹き抜けている。
京を離れた若者は、この瞬間、坂東の理不尽を己の足下に受け止める者へと変わった。
ここに根を下ろすとは、この冷たい一線を越えてなお、血の匂いのする風に背を向けぬことなのだ。




