義と利の狭間に
信太浮島の館に戻ると、国豊はひとり奥向きに籠もった。
灯火は小さく、風もないのに揺れている。
国府で見た帳簿、倉の闇、震える声が、炎の揺らぎに合わせて次々とよみがえった。
「この地の貴族、官どもは……」
国府を預かる維幾・為憲の親子は、前任者の死を好機と見て官物を横領し、官人を脅し、帳簿を改ざんして民から搾取していた。
「……腐敗が、国府の柱の隙間から滲み出しているようだ」
国豊は、声に出して、そう呟いていた。
勇気を振り絞って声を上げた史生の震え、書生の涙が脳裏に残っていた。
彼らの背後には、病人を抱え、食を削って生きる民の暮らしがある。
(民を苦しめる威は悪だ……)
常陸介として政務を握る維幾は、公の衣をまとっている。だがその内側では、民の怨嗟を糧として己の倉を膨らませていた。
炎は揺れ、影が壁に映るたび、沈んだ怒りが様々に形を変えていく。
(この坂東の地では、義と利が真っ向からぶつかっている)
国豊の怒りは抑えきれず、指先の震えとなって現れた。
(私利私欲のために、理不尽な暴力や略奪を行う卑劣さは許せぬ)
(我は道理と秩序に従って、これを糺そう――それが正しい道なのだから)
だが、次の瞬間、国豊は深く息を吸い、静かに吐いた。
「忠平卿のようにありたい……」
幼い頃から見てきた忠平の姿が、国豊の胸によみがえった。
卿はいつも、身分にかかわらず人の声に耳を傾けていた。
「机の上だけでは見えぬ。浦々を歩く。この目で確かめる」
国豊は、ためらいを断つように立ち上がった。
灯火が揺れ、その影が、決意を帯びた彼の横顔を照らした。
翌朝、正庁の扉が開かれると、史生と書生たちが一斉に頭を下げた。
「大掾さま、今朝の訴えが三件ございます」
国豊は深く息を吸い、大掾の座に腰を下ろした。
訴えは、水利を巡る争い、土地境界の不正な移動、郡司の兵による暴行と略奪であった。
別々の声に聞こえながら、根は一つだった。
国府の腐敗は帳簿の中だけでなく、民の暮らしの隅々にまで枝を伸ばしていた。
国豊は一つひとつの訴えに耳を傾け、時に鋭く矛盾を突き、時に膝を折って、訴え人と目線を合わせた。
「御方は、このような沙汰にも心を砕いておられる……」
香取氏一門の季道というこの史生は筆を走らせながら、胸の奥に、小さな希望が灯るのを感じていた。
国豊は、東院の文書局へ向かった。書生たちは文書の写しを作っている。
几帳の向こうからは、国府の教師が、学生たちに法や政の決まりを講じる声が聞こえた。
国豊は、帳簿の写し、郡ごとの役人からの報告、過去三年分の耕地台帳を丁寧に集めた。そこへ季道が、震える手で巻物を差し出した。
「大掾さま……こちらが、前任の大掾殿の最後の報告書です」
その筆跡は乱れ、病に伏しながらも、最後まで国を守ろうとした痕跡があった。
国豊は、静かに目を閉じた。
(……この方の御志をも、継がねばならぬ)
合間を縫って西院の視察にも向かう。
診療所では薬草を刻む音が響き、医学生たちが傷病者の手当てをしていた。
国医師が言う。
「大掾さま、今年は薬草の入荷が遅れております。郡司が『別の用』に回したと……」
国豊は眉を寄せた。
片隅で、病弱そうな子が咳き込んでいた。
国豊は膝を折り、子の額に手を当てた。
「大丈夫だ。薬は手配する。少しだけ、こらえてくれ」
その短い言葉と膝を折る所作は、この場に居合わせた官人たちに、国豊の政が机上の理だけではないことを悟らせた。
北手に回ると、正倉群は朝の光を受けてもなお冷たく沈んでいた。
破られた封の気配は扉を閉じても消えず、官人たちの胸には、次に誰が咎められるのかという恐れだけが残っていた。
雑掌が鍵束を運び、俵の数を数えていた。
国豊は正倉の封を自ら確認し、官物の数を調べる雑掌に声をかけた。
官人たちは驚き、やがて互いに目を見合わせた。
下働きの者にまで丁寧に声をかける国豊の姿から、政の向きが変わり始めたことを感じ取ったのである。
そして一通り検分を終えた国豊は、倉の前に立ち、静かに言った。
「正倉を守れ。ここを失えば、国は痩せる。今日から出入りはすべて私の許しを通せ。誰の命であっても、例外はない」
国豊は、倉の巨大な扉に手を置いた。
その日、薄氷の下を流れる水のように、国府の内側にかすかな揺らぎが生まれた。
だが、氷が割れる音を聞きつけた者たちは、国豊を救い主としてではなく、邪魔者として見始めていた。




