勘解由
国豊は、常陸国府の敷地を一通り巡った。
東院には、学問所、文書局、書生の詰所が置かれていた。
若い学生たちの朗読、文書係たちが筆を走らせる音、墨の香りの中に、国豊は妙な違和感を覚えた。
(――誰も、目を合わせようとしない)
少掾の案内で、国豊は厳重に保管された国印を確認した。
朱の印面は鈍く光っていたが、それを差し出す為憲の指先はわずかに強張っていた。
国豊は何も言わず、ただその強張りを記憶に留めた。
次に西院へ向かうと、国府の医師が薬草を刻み、医術を学ぶ若者たちが傷病者の手当てをしていた。薬草を刻む音、呻き声、慌ただしい足音が混じり合う。
やがて宿老の国医師が巻物を差し出した。
「大掾殿、こちらが昨年の疫病の記録でございます」
国医師が差し出した巻物には、郡ごとの死者数、治療法、薬草の不足などが細かく記されている。
国豊は静かに言った。
「人が生きてこそ国です。薬と手当てを軽んじる政は、いずれ民を失います」
国医師は一瞬、長く伸びた白い眉毛の下の窪みを大きく見開き、国豊の顔を凝視した。
その灰色の目には、淡い期待が宿っていた。
正午近く、国豊は最後に正倉群へ向かった。
高床式の大きな倉が十棟以上並び、そこに納められた米や布は、税として集められた品であり、飢饉や軍役、国府の仕事を支える命綱であった。
国豊は、封印が解かれていた倉のひとつを見て眉を寄せた。
「封は、解く許しを得ていたのか」
鍵束を持った雑掌の一人、痩せた男が、落ち着かない様子で周囲を見回していた。
男は肩を震わせ、国豊の耳元に囁くように言った。
「大掾さま……今年は海沿いの郡で不作がありまして。為憲様が……封印を……」
その喉が、ごくりと鳴り、言葉の先を飲み込んだ。
(封を受けた正倉は、朝廷の許しなく開けてはならぬはずだ)
倉の扉が軋みを上げて開いた。
吹き出した空気は冷えているのに、どこか腐りかけた水のような臭いを孕んでいた。
国豊は足を踏み入れ、暗がりに目を慣らす。
――俵の数が合わない。布の束が不自然に少ない。干し魚の箱は、半分が空だ。
正庁に戻った国豊は、耕地を記した台帳と徴税記録を突き合わせ、数字を追った。
――合わない。
「数が合わない。誰が、どこで、動かした」
声は低く、静かだった。
怒りよりもまず理を求めるその響きに、周囲の官人たちはかえって背筋を凍らせた。
随伴していた史生が、蒼白な顔で唇を噛みしめていた。
彼は、震える声で言った。
「改ざんしたのは我らです……為憲様のご命令で、帳簿を書き替え、税として集めた米や布を横領し、開拓済みの田を“未開墾地”として隠しました。しかし、従わねば斬ると仰せになり……」
恐怖が喉を塞ぎ、言葉が途切れた。
国豊は声を荒げず、史生の肩にそっと手を置いた。
「言え。責める前に、まず事を聞く」
その一言に、史生は涙をこぼしながら続けた。
「改ざんしたのは我らです……為憲様のご命令で、帳簿を書き替え、大量の官物を横領し、開拓済みの田を“未開墾地”として隠しました。しかし、従わねば斬ると仰せになり……」
若い書生(書写官)の一人が、震える声で続けた。
「私には、病の母と幼い妹がおります。逆らえば……家族が……」
言葉が途切れた。
「大掾さま……どうか……どうか我らをお救いください……」
国豊は倉の闇を見つめた。胸の奥で、静かな怒りが火を噴いた。怒号で人を従わせる者と同じ場所へ落ちれば、糺すべきものを見失う。国豊は爪が掌に食い込むほど拳を握りしめた。
「これほどまでに、国を……」
声が震えた。怒りを押し殺そうとしても、胸の奥から込み上げてくる。
史生と書生は、息を呑んで国豊を見つめた。
国豊は、深く息を吸い、ゆっくりと吐いた。
そして、静かに言った。
「税は国の血だ。ここを腐らせれば、最初に倒れるのは民だ」
その声には、若さを覆すほどの静かな規律があり、倉の奥の闇までも押し返すようであった。
国豊は常陸国府をあとにした。
背後に沈む国府の正庁は、夕影の中でさらに重く見えた。だが、その重さの下で押し潰されている者たちの声を、彼はすでに聞いてしまっていた。
「立て直す。必ず、この常陸を」
その小さな誓いを境に、常陸の闇は、もはや国豊に見逃されるものではなくなった。




