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北辰の冥影 ~将門炎舞記~  作者: 浮島太郎
初見の郷

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坂東下向

 およそ千年の昔、平安時代中期の坂東の地勢は、今日とは大きく異なっていた。現在の霞ヶ浦、印旛沼、手賀沼――湖沼は、水脈と葦原を介して繋がり、果ての知れぬ葦の原がどこまでも続いた。

 これらの水域は「香取海(かとりのうみ)」と名付けられた入り江に通じ、季節の光を受けて色を変えながら、水面は潮汐の影響を受けて日々に揺らぎ、風の強弱によっては陸地の輪郭すら見失われることがあった。

 目的地である浮島は、四方をこの香取海に囲まれた孤島である。

 白い帆が風を孕(はら)み、船体がぎしっと軋(きし)んだ。国豊は、帆柱の根元から突き出た細い梁に足をかけ、海風を真正面から受け止めていた。潮の匂いを含んだ強い風は、京の湿った空気とはまるで違う。それは、彼の胸にこびりついた鬱屈(うっくつ)を吹き払うかのようだった。


 平安京で、宮中警護や治安維持を担う「兵衛尉(ひょうえのじょう)」(兵衛府の武官・判官)の官職に就いていた藤原国豊(ふじわらのくにとよ)は、兄とも慕う平小次郎将門を追うように、都から遠く離れた東国、この荒ぶる水の郷を目指した。

 藤原国豊(浮島氏)の血は高貴である。中臣姓藤原北家中納言・藤原山蔭の孫、従四位上・藤原仲正の子、と伝わる。だが、身分卑しい側室の腹から生まれた庶子であるがゆえに、実父からは疎まれた。

 仲正は、歌舞や芸能を愛し、遊女(あそびめ)や傀儡女(くぐつめ)を愛した。その結果、生母不詳の数多くの子女に恵まれた。だが、仲正が庶子に関心を抱くということは無く、また、顧みることもしなかった。

 家の中での居場所は狭く、未来は閉ざされていた。それでも、国豊は己を恥じたことはない。むしろ、己の力で道を切り開くことを強く願うようになった。

 そんな国豊を、ただ一人、気にかけてくれた人物がいた。藤原一門の長者にして摂政、左大臣 藤原忠平卿である。国豊が、坂東下向の願いを伝えたとき、卿は静かに頷き、

「汝には幼き頃より、筋道を通す“理(ことわり)”がある。東国でも藤家の血に恥じぬ働きをせよ。」

 と、常陸大掾(ひたちのだいじょう)(国府の三等官)の位を与えて堂上(殿上人)への道筋を残し、国豊の背を押してくれた。その温情は、国豊の胸に深く刻まれている。

 国豊は帆先に立ち、東の空を見つめた。長く燻っていた思いは、穏やかに波間に吸い込まれていった。


 船が島に着くと、国豊は砂を踏みしめ、初めて浮島の地に立った。

 迎えに来ていたのは、信太安広(しだのやすひろ)。生母の実家、物部信太連(もののべのしだのむらじ)の末裔にして、国豊の外祖父にあたる。大柄で、髭はぼうぼう、声は雷のように国豊の頭上に響いた。

「おお、其方(そなた)が吾(わ)の孫君か。細い、白い、まるで京の姫君のようだな。」

 豪快に笑いながらも、その目は鋭く国豊を値踏みしていた。

(……さて、この御曹司は、果たして浮島の棟梁たる資質ありや。)

 物部氏は、“天皇家以外で唯一天孫降臨の伝承を持つ一族である”、と伝わる。その宗家は蘇我氏によって滅ぼされたが、物部の支族は全国各地で血脈をつないだ。

 国豊は、静かに頭を下げた。

「常陸大掾、藤原の朝臣(あそん)国豊が、祖父殿にお仕えするために、たった今、こちらに到着いたしました。」

 安広は、しばし国豊を見つめ、やがて破顔し、満足気に頷いた。

「今日より、この浮島を我が根といたします。」

「よい。浮島を含む信太は、汝の母の故郷だ。まずはこの地の風を吸え。京の香をその身に纏っておったら、坂東武者はついては来ぬぞ。」

 その言葉に、周囲の荒武者たちがどっと笑った。

 国豊は微笑み、胸の奥で静かに拳を握った。この信太の地に根をおろし、己の旗を掲げる。必ずや、この国豊の名を刻む――ここからが、我の戦いだ。


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