天裁、星辰に応ず
将門は忠平卿へ、遺領の横領、国香の暴虐、民の苦しみを訴える書簡を送った。拙くとも真っ直ぐな筆致を読み、忠平卿は静かに目を閉じた。
忠平卿は、参議・平時望を常陸国へ派遣した。桓武平氏高棟流の時望は、地方の事情を公平に裁ける数少ない公卿で、忠平卿の信頼も篤かった。
時望が常陸国府に入ると、すぐに異様な空気を感じ取った。
税は徴収されているはずなのに、国府の倉は空に近く、民は飢えている。
国香の郎党は国府の兵よりも幅を利かせ、源護の一族は国府の権威を私物化していた。
常陸介・藤原維幾は、時望の前で深く頭を垂れた。
「……坂東は、乱れております。良将殿の遺領は、国香殿と源護殿が……」
時望は、国府の文書を調べ、民の声を聞いた。
そして、ひとつの結論に至った。
坂東の腐敗は、国香と源護の強欲によって生じている。
将門の訴えは、すべて事実である。
真壁郡・石田館。
冬の夜、国香は火鉢の炎を見つめ、独り酒を含んでいた。
揺れる炎が、時折、将門に似た影を結ぶ。
(……あの豎子が、豊田で兵馬を鍛えているだと?)
国香は将門を侮っていた。良将の嫡男とはいえ、都育ちの若造に武門の棟梁が務まるはずはない――そう高を括っていたのである。だが、染谷川の伏兵は将門を討ち漏らし、良文まで将門についた。火鉢の炎に浮かぶ影を睨みながら、国香は初めて将門を脅威として意識した。
良将の嫡男とはいえ、都育ちの若造。
武門の器など持つはずがないと高を括っていた。
だが――染谷川での伏兵が失敗し、国香の胸には、じわじわと焦りが広がっていた。
(良文が将門についた……あの男は、坂東でも指折りの武勇を持つ)
火鉢の炎が大きく揺れた。
国香は思わず眉をひそめた。
(……たとえ業病に侵された身であろうとも高望流の嫡流は、この国香王だ。良将でも良兼でもない)
それは、棟梁の座と坂東の利権を将門に奪い返され、自らの野心が潰えることへの恐怖だった。
良将の死後、源護と結んで利権を奪ってきた国香にとって、将門の台頭は致命的な脅威だった。
一方、源護は源護で、別の焦りに苛まれていた。
国香との姻戚を利用して田畑と村を奪い、国府の権威まで私物化してきた源護も、忠平卿の調査に追い詰められていた。
源護は、郎党たちを集めて言った。
「時望殿が常陸国府を調べている。国府の文書も、村々の声も、我らに不利なものばかりだ。」
郎党たちは顔を青ざめさせた。
「では……将門殿の訴えが、都に届くのですか」
源護は歯噛みした。
「届く。忠平卿は、将門が坂東平氏の棟梁として立つことを後押しする可能性すらある。」
その言葉は、郎党たちの胸に冷たい恐怖を落とした。
源護は続けた。
「将門が豊田で兵を鍛えているという噂もある。黒騎馬とやらが湿原を駆けていると……このままでは、いずれ我らが討たれる。」
源護の声は震えていた。
軍閥として兵を擁する源護でさえ、民心を集める将門の「義」を前にすれば、その力が砂のように崩れてゆく予感を拭えなかった。
ある夜、国香と源護は石田館の奥で密議を開いた。
火の灯りが揺れ、二人の影が壁に大きく伸びた。
国香が口を開いた。
「舅殿……もはや、将門を討つしかあるまい。」
源護は黙って頷いた。
「だが、染谷川のような浅い策では通じぬ。」
国香は苛立ったように火鉢を叩いた。
「この坂東は力で動く。将門が兵を集めて立つ前に、その芽を摘むしかない。」
源護は、国香の激情を冷やすように言った。
「ならば坂東の諸豪族を巻き込む。将門が豊田に籠もる今、兵を集めて営所を焼き払えば、二度と立てまい」
国香の頭巾の奥の目が、ゆっくりと笑った。
その笑みは、炎の影のように歪んでいた。
「良い。豊田を焼いてでも、将門を潰す。」
その言葉は、坂東の闇がさらに深く沈んでいく音のようだった。
国香と源護は兵を集め始めた。だが、坂東の民はすでに将門の名を囁き始めていた。
「将門様が、豊田で黒騎馬を鍛えている」
「将門様は、我らの声を聞いてくださる」
「国香殿や源護殿とは違う……」
民の声は、国香と源護の陰謀を蝕んでいった。
焦りは判断を鈍らせ、陰謀は綻び始める。
やがて時望は都へ戻り、忠平卿に報告した。
「将門の訴えに偽りはございません。坂東は国香と源護の暴虐に荒れ、民は将門殿を高望流の棟梁として望んでおります」
忠平卿は静かに頷いた。
「将門が、義の道を歩み始めたようだ。坂東の乱れを正す者が必要だ。」
その言葉は、遠く豊田の地で黒騎馬を鍛える将門の背を、確かに押す光となった。
忠平卿は坂東五か国の国府へ、良将の遺領を調査し、しかるべき相続人へ直ちに相続させ、その証を朝廷へ提出せよとの宣旨を下した。
上総介・平良兼と常陸介・藤原維幾は、国府の裁きとして不当に奪われた良将の旧領を簒奪者から召し上げ、将門へ相続の証書と目録を与えた。朝廷の宣旨を前に、源護も国香も表向きは抵抗を控え、命に従った。
坂東の闇は、まだ序章に過ぎない。
父の死は将門を坂東の闇へ導く扉となり、妙見の星は、その闇を進む背を照らす光となった。
夜、豊田の空には北斗七星がくっきりと輝いた。
良文は、将門の傍らで静かに言った。
「将門……坂東は、星の導きにより、お前を求めている。」
将門は星を仰いだ。妙見の光を背に受け、坂東平氏の棟梁として坂東の闇を進む覚悟を定めた。




