若龍の帰郷、義旗を掲ぐ
清涼殿に雷が落ち、宮廷が危うく揺らいだ騒擾の秋――
都に仕える滝口武士・平小次郎将門のもとへ、一通の訃報が届いた。
――鎮守府将軍・平良将、病没。
知らせに触れた将門の胸に、父の声と坂東の風景が蘇った。
幼き日、湿原を駆ける黒馬の背で聞いた父の声。
「武門の棟梁は、ただ血筋を継ぐ者ではない。民の怨みを背負い、土地の声を聞く者だ。」
悲しみの底で、坂東に立つ時が来たのだと、静かな決意が芽生えた。
将門は忠平卿の邸で跪き、父の死と坂東の混乱を報告した。聞き終えた忠平卿は深く目を閉じた。
「……良将殿が亡くなられたか。坂東の柱が折れたようなものだ」
忠平卿はただちに家司を呼び、蔵人頭への報告を命じた。その迅速さが、良将への敬意と将門への信頼を物語っていた。
忠平卿の横顔を見つめながら、将門の胸には、都で過ごした十二年の歳月が静かに、しかし鮮やかに蘇っていった。
十五の歳で上洛したあの日。父の命で身ひとつのまま上洛した将門を、忠平卿は食客として迎えた。都人が粗野な若者と冷ややかに見るなか、忠平卿だけは違った。
「汝には義がある」
やがてその一言で、将門は滝口へ推挙された。
その推挙と恩顧が、将門の人生を変えた。
そして――忠平邸で過ごした十二年の中で、もっとも温かい記憶は、国豊との日々だった。
宇治木幡から幼い国豊を迎えた日、霧の中に立つ童は将門の威容に震えていた。だが翌日からは兄と慕い、弓を引けば隣で真似をし、馬を走らせれば必死に追った。都の外へ連れ出すたびに見せた笑顔と、「小次郎さま、次はどこへ行くのですか」という声は、今も耳に残っている。
やがて国豊も元服し、武官として朝廷に仕える立派な青年となった。
その成長を見守れたことは、将門にとって何よりの喜びだった。
将門は、忠平卿に深く頭を垂れた。
「十二年もの長きにわたり、この将門をお導きくださり、国豊をも育ててくださった恩、生涯忘れませぬ。」
忠平卿は静かに頷いた。
「将門……お前は良将殿の子である前に、私の子も同然だ。坂東へ戻っても、決して義を忘れるな」
その言葉は、将門の胸に深く刻まれた。
「小次郎よ、国豊には会ってやらぬのか?」
将門は、ただ笑って頷いた。
忠平卿の前を辞した後、将門は都の空を見上げた。
十二年の記憶を胸に、将門は決意した。
「坂東へ帰る。父の遺領を守り、民の声を聞く者として、乱れた坂東を正す」
都で育まれた義と情が、将門の背を押していた。
しかし、帰郷した将門を迎えたのは、父の死を悼む声ではなかった。強欲と裏切りが渦巻く、荒れ果てた坂東の現実であった。
良将が生涯をかけて築いた遺領――陸奥の基盤、常総流域の水運利権、猿島・豊田の肥沃な地は、伯父の国香と良兼に分割され、嵯峨源氏の傍系・源護の一族に奪われていた。真壁郡を本拠とする源護らは、前常陸大掾の地位を盾に田畑を奪い、軍閥として勢力を広げていた。
「良将の嫡男は都にいる。弟たちはまだ幼い。」
源護らはそう侮り、飛び地となっていた良将の所領を次々と横領した。そして、将門が下向するという報せが届くや否や、源護と国香は、あろうことか将門を亡き者にしようと企てた。
上野国花園村・染谷川。
その川辺に伏兵を潜ませ、将門一行を討ち取ろうとしたのである。
この陰謀を察したのは、上野国の豪族・大野氏だった。
大野氏の娘を娶っていた良文に密使が走る。
「源護らが、将門殿を討つため兵を潜ませている。」
良文は甥を救うため、ただちに兵を差し向けた。
平良文――醍醐天皇の勅命で東国の賊を討った、坂東屈指の武人である。良将の死を境に、高望流平氏は割れ、坂東は姻戚の強欲が荒れ狂う地となっていた。
染谷川で戦いが始まった。
源護らの伏兵は周到だった。将門・良文勢は苦戦し、ついには七騎まで追い詰められる。血に濡れた川辺で、将門は坂東の闇の深さを知った。
だが、将門はこの時すでに、武家の棟梁として立つ覚悟を固めていた。
父・良将の遺領である猿島・豊田――そこは、坂東の湿原と河川が複雑に絡み合う、赤い土の匂いが濃い土地だった。
染谷川で七騎まで追い詰められた将門は、再び同じ轍を踏まぬため、父の遺領・豊田へ退いた。湿原と河川に守られたこの地を再起の拠点と定め、兵馬を蓄えることにしたのである。
豊田には、良将が整えた御厩と製鉄の炉があった。
炉の火は昼夜絶えず赤く燃え、湿原の風が吹くたびに、火の粉が星のように舞った。
その火の前で、将門は新たな軍を鍛えた。
黒騎馬――湿原を縦横に駆け抜ける、坂東最強の騎馬軍。
蹄が泥を跳ね、黒い鎧が湿原の影に溶ける。夜そのもののような軍を率い、将門は父に教えられた「武門の棟梁の道」を胸に坂東の風を切った。
やがて、豊田に籠もる将門のもとへ、坂東の民がひっそりと訪れるようになった。
彼らは、夜陰に紛れて将門のもとへ来て、震える声で訴えた。
「将門様……どうか、坂東をお救いください……」
「国香殿は、我らの田を奪い、子を兵に取っていきました……」
「源護殿の郎党は、女を攫い、村を荒らしております……」
将門は黙って聞いた。
民の訴えを黙って聞きながら、将門は怒りに任せず、その一つひとつを胸の奥へ沈めた。
父・良将が守ろうとした坂東。その坂東が、今や強欲と暴虐に蹂躙されている。
将門は、民の声を聞くたびに、黒騎馬の鍛錬にさらに力を入れた。湿原を駆ける蹄音は、坂東の怨念を吸い込み、やがて巨大なうねりとなっていった。




