宇治霧の母影
その頃の国豊にとって、宮中で得る位も名も、母を救うための足場にすぎなかった。成人の列に加わったことで、かえって母の孤独は遠くなった。その遠さが、彼を宇治へ向かわせた。
都の夕空が薄桃に曇るころ、国豊には、宇治川の霧よりも濃い母への思いが満ちていた。兵衛府の尉として出仕を重ねる日々のなかで、殿上に笑い声がこぼれるたび、宇治の寂れた別業に灯る母の姿が、ふいによみがえるのだった。
ある夕暮れ、国豊は決意した。朝廷での役目を終えるや否や、人目を避け、単騎で宇治へ向かう。宇治川周辺の巡検、宇治に隠居する某公への伝言――そうした口実を整え、都を出た。
忠平卿から贈られた俊馬に跨り、水干に着替えた国豊は、烏帽子をきつく結び、背に矢を負い、腰に太刀を帯びて、宇治木幡の別邸へ疾駆した。
都から宇治への道は、夜になるほど危うい。それでも国豊は従者を連れなかった。母に会うことさえ、堂々とは許されぬ身だったからである。
寂れた山道を抜け、峠を越え、悪路を走るうち、国豊の衣は泥と土埃にまみれていった。宇治川に深い川霧が立ちこめる暮明の刻、彼は馬を遠くに繋ぎ、荒れた庭を音もなく進んだ。
別邸の門を潜ること自体、仲正には許しがたい。見咎められれば免職に追い込まれる恐れすらあった。国豊は夜陰に紛れ、裏門から忍び込むほかなかった。
別邸の奥、灯火も満足に届かぬ薄暗い北の対屋で、夕霧はひっそりと暮らしていた。
かつて都で名を知られた美貌は、今も面影だけを残していた。衣は褪せ、黒髪には白いものが混じり、頬は痩せていた。それでも灯火に照らされた横顔には、国豊の記憶にある母の華やぎが、かすかに残っていた。
そこへ、元服を終えた息子が現れた。兵衛府の尉として弓馬を帯び、危険を冒して単騎で来たのであった。
「――国豊」
夕霧の声が震えた。
成人した国豊が、宵闇を背に立っていた。灯火を受けた姿は夕霧の瞳に眩しく映り、その冠の下には、幼い日に抱きしめた子の面影がまだ残っていた。けれど目の前の息子は、もう自分を案じ、夜道の危うさを越えて来るほどの男になっていた。
国豊は、思い出したかのように、懐から土産を取り出した。
米、薬、唐紙、扇――ささやかな品々である。だが、それは母を思う心の形そのものだった。
「母君……遅くなりました」
その一言に、国豊の十余年が詰まっていた。
夕霧は震える手で扇を撫で、唐紙に触れた。涙が浮かんだが、声は出なかった。
国豊は、母を救い出す力のない自分を見つめた。戸惑いは失望へ変わり、父・仲正への思いは、嫌悪の形を取りはじめていた。
「いつか、必ず……母君の故郷へ、信太浮島へお連れします」
それは、若き武官の胸に刻まれた最初の誓いであった。
母との密会を終え、対屋を出た廊で、国豊は下男と鉢合わせた。雨戸の隙から入る月明かりに、濡れた板敷が細く光っている。灯を継ぎに来た下男は、手にした火皿を傾け、油の匂いを闇へこぼした。
「あなや!」
声を上げた下男は敷居に踵を取られ、尻餅をついた。火皿が板の上を転がり、揺れた火が国豊の冠と太刀の鍔を照らした。相手が国豊であることに気づくと、下男の怯えた目に、卑しい計算の色が混じった。
「しかし、許可なく立ち入るとは、旦那様の耳に入れば、ただでは済みませぬな。」
いやらしい笑みを浮かべ、脅しの言葉を並べる。
国豊は、瞬時に間合いを詰めた。
「では――汝の口を、ここで封じておくか」
太刀の鍔が、親指の下でかちりと鳴った。鯉口がわずかに切れ、刃が闇に細く光る。
下男が再び声を上げようとした瞬間、国豊は胸倉を掴み、柱へ押しつけた。背が鈍く鳴り、下男の足が板を掻く。国豊の指は襟を越えて喉元に食い込み、声の通り道を正確に塞いだ。
下男は口を開けたまま息を吸えず、白目を剥きかけた。乱れた髷から汗が落ち、国豊の手の甲にひとつ跳ねた。
――国豊の低い声が闇に沈んだ。
「下僕の死体ひとつ宇治川に沈めたところで、『盗賊と見誤って成敗した』と兵衛府の俺が言えば、それが通る。――試してみるか」
鍛えられた武官の凄みに、下男はがくがくと頷いた。国豊は手を離したが、指はなお喉の形を覚えたまま曲がっていた。柱にもたれた下男の膝が崩れ、板敷に爪を立てる音だけが残った。
国豊は一度だけ掌を見た。汗の小さな粒が手の甲に光っている。袖の内側でその手を拭うと、指先がまだ他人の脈を探すように震えていた。
国豊は懐から数枚の銭を取り出した。銭は畳ではなく、わざと下男の膝先の板敷へ落とした。乾いた音が三つ、廊に跳ねた。
「これで酒でも飲め。俺がここに来たのは公務だ。汝は妖を見た――そうであろう」
下男は恐怖に慄き、声を絞り出した。
「若君の仰るとおりに致します……どうか命ばかりは……」
「公務の邪魔立てをすれば、次こそ汝の命はない。よく覚えておけ」
国豊は、宇治川の霧に紛れるように、木立の闇へ消えていった。




