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北辰の冥影 ~将門炎舞記~  作者: 浮島太郎
新皇、墜つ

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この身は滅ぶとも、名は朽ちず

 羅睺は喰らい、計都は腐らせる。

 二つの凶星に煽られた七曜は、もはや将門の心を映す影ではなかった。

 戦場を越え、坂東そのものを切り裂こうとする災厄へ変わっていた。


 羅睺の黒い火はその恐怖を喰らい、計都の瘴気は、残された勇気さえ灰に変えていく。

 七つの異相は、もはや敵兵と雌雄を決するための刃ではなくなっていた。

 荒影は敵陣だけでなく湿った葦原まで黒く焦がし、護影の白い壁は味方の退路を閉ざす。和影の沈黙は伝令を断ち、誓影の太刀は逃げる兵と追う兵の境目すら見失わせた。

 智影が撒いた幻に馬は狂い、義影の声に酔った将門軍は、死を勝利と取り違えて笑いながら前へ出た。


 秀郷軍の陣形は、押し崩されたのではない。内側から意味を失って瓦解していった。盾は誰を守るためのものか分からず、槍はどこへ向けるべきかを忘れ、鬨の声はやがて、笑いとも泣き声ともつかぬ濁った響きへ変わった。

 死の異相が通った跡では、まだ斬られてもいない兵が膝をつき、己の最期を見たかのように武器を落とした。


 秀郷は、ようやく悟った。

 これは兵と兵がぶつかる戦ではない。

 天から落ちた災いが、将門という名を借りて、坂東の地そのものを裂こうとしている。


 貞盛は泥に膝をついた。憎むべき敵を前にしながら、胸に湧いたのは勝利への執念ではなく、底知れぬ寒気だった。

 将門を討てばすべてが終わる――そう信じて、ここまで来た。だが目の前の災厄は、討ち果たすだけでは足りぬほど深く、人の痛みと願望が歪んで生まれたものだった。


「将門……! お前の心の奥底に潜んでいた願いとは、何だったのだ。お前は、本当は何を守ろうとしていた……!」


 貞盛の声は震えていた。将門によって心を壊され、夢も希望も奪われた怨みが、言葉の端々に滲み出る。

「お前は――すべてを滅ぼすために生まれたのか!」

 怨火の叫びは、戦場の喧騒に吸い込まれるように消えていった。七曜はすでに制御を離れ、羅睺と計都が混乱を喰らい、世界の縁を噛み砕こうとしていた。

 その瞬間――将門の胸の奥で、何かが軋んだ。

 これは、自分が望んだはずの力だった。だが、その力が生まれた理由を、将門自身がまだ言葉にできずにいた。

 受領どもに踏みにじられた坂東を救い、飢えた民に田を返し、名もなき者が膝を折らずに生きられる国を築くための力だった。だが目の前で倒れているのは、都の兵だけではない。自らの旗を信じて集った者たちまでもが、七曜の影に呑まれ、笑いながら死へ歩いている。

 耳の奥で天津甕星が囁いた。その声は言葉である前に呪であり、骨の髄へ釘を打ち込むように響いた。

「ためらうな。王とは骨の上に立つものだ。血を惜しむ者に世は変えられぬ。」

 将門はその声を知っていた。挙兵の日から何度も聞いた声だった。

 弱さを断て、情を捨てよ、怒りを神意と呼べ――そう囁くたび、彼は少しずつ勝ってきた。そして少しずつ、自分の声を失ってきた。


 泥の水面に、かつて見た村々の灯が揺れた。

 寒さに震える子ども、

 租庸調に泣く老女、

 武具を取ることも知らずに殺された男たち。

 彼らのために立ったのだと、将門は思った。


 だが、その灯の向こうに、今は黒い王座が見える。そこへ座れば、誰も彼に逆らえない。誰も奪われない。誰も飢えない――そのはずだった。

 だが王座の足元には、守るはずだった者たちの影が積もっていた。


 将門はそこで初めて悟った。

 自分が本当に望んでいたのは、神になることでも、玉座に就くことでもない。彼が守りたかったのは、民が朝に火を焚き、子を抱き、飢えずに眠る静かな日々だった。そのために振るった刃が、今、その朝を奪おうとしている。

 将門は、泥に沈みかけた馬上で静かに手を上げた。

「やめろ……。その者たちは、贄ではない」

 将門の喉から、かすれた声が漏れた。誰に向けたのか、自分でも分からない。七曜か、凶星か、それとも己の内で笑う神か。

「俺は、国を作りたかった。屍の山ではない。飢えぬ朝を、奪われぬ暮らしを――それだけを、望んだはずだ」

 その声はかすれていた。けれど、そこに宿っていたのは神の傲慢ではなく、戦い続けた一人の男の疲れだった。


 七つの異相が、一斉に動きを止める。

「俺は、苦しむ民を守りたかった。誰かを踏みにじる玉座など、俺には必要ない」

 羅睺が、獣の喉で呻いた。

「迷うな。情を捨てよ。王とは、屍の上に立ってこそ王となる」

「違う」

 将門は血に濡れた唇を動かし、己の胸の奥へ言い聞かせるように続けた。

 計都の黒い翼が、空を裂くように震えた。

 だが将門は、ゆっくりと首を振った。

「俺は人として生まれ、人として怒り、人として間違えた。

 ならば、人として止める。たとえ、この身ごと砕けようとも」


 その言葉に応えるように、七曜の影は光へほどけ、将門の身体へ還っていった。

 破軍星の輝きは鎧の奥で消え、残ったのは、血と泥にまみれた一人の坂東武者だった。


「許さん――新皇・将門よ。ここで手放すことなど、決して許さぬ!」

 星神・天津甕星は、将門の喉を借りて最後の咆哮を上げた。


 その頃、公津が原で祈り続けていた忠行の浄眼が、ついに七つの影の奥にある本体を捉えた――兜に八咫烏の飾りを戴く、ただ一人の将門。

「本体は、八咫烏の兜の男だ!」

 忠行の叫びは祈念となり、公津が原から北山の戦場へ、見えぬ矢のように走った。その刹那、反転した南風のただ中に、誰が放ったとも知れぬ一条の光が生まれた。天の意志か、地に満ちた祈りの応えか――光の矢は風そのものに導かれるように湿原を渡り、八咫烏の飾りをかすめ、将門の額を射抜いた。


「なぜだ。天津神の支配を終わらせ、この現世の理を我が手にできたものを。なぜ、この期に及んで手放す!」


 星神・天津甕星の咆哮は、風に裂かれて消えた。

 新皇の異相は霧のように解け、七つの影も、二つの凶星も、泥と血の匂いだけを残して消え失せた。だが消えたはずの闇は、湿原の底へ沈みながら、まだ誰かの舌で祈られる日を待っているようだった。


「新皇・将門よ。汝が身は滅ぶとも、名は朽ちぬ。我が怨火はその名に宿り、名あるかぎり、この呪(しゅ)は、再び土より還る」

 星神・天津甕星は呪だけを遺し、再び現世の闇へ沈んだ。


 大将を失った将門軍は、まもなく湿原の中で崩れた。黒騎馬の蹄音は泥に吸われ、折れた旗は風の止んだ枯葦に沈み、兵たちの声もひとつ、またひとつと水音の奥へ消えていった。


 秀郷は、血に濡れた太刀を振り下ろし、泥濘に倒れ伏した将門の首級を刎ねた。


 刃が離れた瞬間、将門の重瞳が、かすかに揺れた。

 首が地に落ちると同時に、その光はゆっくりと、静かに、消えていった。

 刎ねられた首はなお温かく、重瞳はわずかに湿原の空を映していたが、もはや何も見てはいなかった。


 秀郷は太刀を拭い、静かに鞘へと収めた。

 重瞳の光が再び灯ることは、二度となかった。


 刎ねられた首級は下野国府へ送られ、解文を添えられて、やがて京へ上った。


 戦が終わったあと、北山の湿原には、勝者の名も、敗者の声も残らなかった。

 ただ、将門の首が刎ねられた場所だけは、幾日を経ても、泥が乾くことはなかった。




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