終焉の湿原
その頃、公津が原の護摩壇では、寛朝と忠行が霊力のすべてを賭して祈り続けていた。
不動明王の霊験による調伏の修法、国家安泰を賭した祈祷は、この日、まさに満願を迎えようとしていた。炎は二十日以上燃え続け、僧の衣は煤にまみれ、声は枯れ果てていた。それでも二人は護摩杵を握り、なお祈りを重ねた。
それは、将門軍が勝勢をつかみかけた、まさにその刹那だった。
日光の男体山に祀られる大己貴命が、ついに寛朝の祈りに応えた。大己貴命、すなわち大国主命は、荒れ狂う日光颪を鎮め、大地そのものが息を吸い込むようにして、下総の南方から新たな風の息吹を呼び起こした。
北から吹いていた日光颪は、不意に息を潜めた。湿原の奥から、南風がうねり上がる。その風は春の匂いではなく、土中に封じられた古い名を掘り返すような、冷たい湿りを帯びていた。
その瞬間――風向きは反転した。追い風は逆風となり、黒騎馬の馬脚は泥に沈み、国巣衆の弩の矢は砂塵に呑まれて勢いを失った。視界を奪われた兵たちは足を止め、鬨の声は咳と呻きに変わった。
戦場の流れは、ゆっくりと、しかし確実に貞盛と秀郷の側へ傾いていく。
風向きの反転は、七影の円環にも影響を及ぼした。王影の死の気配は、風の湿りに揺らぎ、戦場の理が、将門の支配からわずかに離れ始める。
「公津が原の坊主が……猪口才な……」
その声は、すでに将門のものではなかった。もはや人の声でもなく、風そのものを震わせるような、星の裂け目から漏れ出す闇の響きだった。
形勢を押し戻すため、将門――破軍の王影は、自ら駿馬を駆り、前線へ躍り出た。
北山の湿原で、二つの力がぶつかった――大己貴命の風と天津甕星の闇。風は闇を押し返し、闇は風を呑み込もうとし、戦場は、神々の息吹が交錯する「境」へと変わった。七影が揺らぎ、兵たちは膝を折り、湿原は再び姿を変えようとしていた。
北山は、いまや人の戦ではなく、神々の争いの舞台となった。
星神が、天を揺るがした。
その瞬間、戦場の空から色が消えた。陽光は何か巨大なものに空ごと呑み込まれたように削がれ、昼であるはずの空が、夜よりもなお深い闇を孕んでいく。
七影の背後に、黒い裂け目が開いた。それは空の傷ではなく、天そのものが裏返り、星神の内側が露出した「天の内臓」のようだった。
星神・天津甕星は、再び大凶星――羅睺を呼び寄せた。裂け目の奥で、黒金の光が脈打つ。
裂け目から現れた暗黒の星、羅睺は、虎とも狼ともつかぬ巨獣の姿をしていた。濡れた闇をまとった毛並みの奥で、無数の星屑が瞬き、腐臭が戦場へ垂れこめた。戦場の地形がわずかに揺らぎ、湿原の泥は黒い光を帯び、葦原は風もないのに逆向きに揺れた。
羅睺の剥き出しの牙から滴る瘴気は、人の光を奪い、身を焼く黒煙のようであった。その臭気を吸った敵兵は、たちまち目、鼻、口から血を流した。
獣の姿をもった羅睺が吼えた。その咆哮は音ではなく、星の死骸が砕けるような衝撃となって戦場を走り抜けた。羅睺の咆哮は、肉体ではなく、心の奥に潜む怨念を直接引き裂く「呪いの風」だった。兵たちの胸には、忘れたはずの恨み、怒り、哀しみが、泥の底から這い出してくるかのように蘇る。
羅睺の咆哮に呼応するように、将門の七つの影は一斉に軋んだ。七影は霊力を増しながら、羅睺の闇に引かれるように歪み始めた。
それは、将門の七影が、星神の本質へ近づいていく兆しだった。炎は黒く変色し、光は揺らぎ、静寂はひび割れ、刃は泥のように歪み、幻影は濃く滲み、空気は不気味な熱を帯び、死はより深い沈黙へ誘った。
羅睺が吼え、七影が歪み、星神の闇が戦場を覆い始めた。
破軍星の王影――将門本体を映す死の異相だけが、静かに深く佇んでいた。
そこには怒りも慈悲もなかった。ただ、冷たい意志だけがあった。この場に生きている敵兵を、この世から一つずつ消していくための沈黙だった。
将門が天へ向けて叫んだ。
「来たれ!」
その声は、もはや人の声ではなかった。羅睺の咆哮と同じく、星の裂け目から漏れ出す闇の響きだった。羅睺の咆哮が戦場を喰らい尽くす中、上空に新たな影が滲み出た。
暗黒の彗星、計都が、黒い鳳凰の姿をもって両翼を広げた。羽根の一枚一枚は煤けた刃のように薄く、羽ばたくたび、戦場の上へ毒を含んだ瘴気が灰のように降り注いだ。その瘴気は、肌に触れる前から心へ沁み、忘れていた恨みをひとつずつ掘り起こした。
瘴気の毒に触れた者は、ただ、自らを壊してしまいたいという冷たい衝動だけが、胸の奥に残った。
羅睺は人の恐怖を喰らい、計都は人の勇気さえ灰に変えていく。
羅睺が兵の怨念を呼び起こし、計都が兵の心を腐蝕させる。
戦場は、喰らう闇と腐らせる闇の二重の災厄に覆われた。
二つの凶星に煽られた七曜は、もはや将門の心を映す影ではなかった。
荒影の炎は黒く変色し、
護影の光は濁り、
和影の静寂はひび割れ、
誓影の刃は歪み、
智影の幻影は滲み、
義影の鼓舞は沈んだ。
その中心で、王影――将門本体が静かに歩み出す。
七つの異相は、敵兵と雌雄を決するための刃ではなくなっていた。七影は歪み、将門の影は星神の災厄へと変質し、北山は完全に異界へ転じた。
兵たちは悟った。――これは戦ではない。これは神々の争いの余波だ。自分たちは、ただその「贄」として立っているだけだ。




