人の戦、神の戦
湿原は、星神の降臨を受けた瞬間から、戦場ではなく、神話の舞台へと変貌していた。自分たちが追ってきた仇は、もはや仇の姿形を残した「別のもの」になりつつある。貞盛は七つの影に、同じ血を分けた従兄の面影と、そこに巣食う狂気を同時に見て取った。
「将門……! 貴様は……まだ人なのか……!」
貞盛は、恐怖と哀しみの混じった叫び声をあげた。
その瞬間、目の前に将門その人が立ちはだかった。
「将門ッ! 自ら前線に罷り越すとは豪気なものよ」
貞盛は泥濘に沈みながらも太刀を構えた。
「うおおおおッ!」
貞盛は泥濘を蹴り、荒影へ突進した。
荒影が、まるで獣が獲物を見つけたように顔を上げた。
それは炎の将門――重瞳に宿る黒い焔は、貞盛自身の怨火と同じ色であった。
「我は七人将門が一柱――荒影、怒りの将門なり!」
炎の太刀が振り下ろされる。
「何ィ、七人将門が一柱だと!? 世迷い言を抜かすな!」
貞盛は必死に受けるが、打撃の重さで膝が沈む。
「貞盛――汝は怨火を抱えたまま、まだ立つか」
荒影は笑った。それは人の笑みではなく、怨念が形を得た焔の揺らぎだった。
荒影は炎をまとい、貞盛の退路を焼き塞ぐ。
貞盛が荒影の炎を避けて後退した瞬間、背後に別の黒い影が立った。
「ちっ、新手か!」
振り返った貞盛の目に映ったのは、もう一人の将門の姿だった。
「我は七人将門が一柱、智影(恐れ)の将門。いざ見参!」
貞盛は、息を呑んだ。
「何だと! 将門が、また一人現れただと!」
智影(恐れ)の将門が囁く。
「恐怖は、お前の心の内にある」
智影が闇の太刀を振り下ろす。
「き、貴様は、幻覚か⁉」
衝撃で腕が痺れ、貞盛の太刀先が震えた。
「違う。幻覚とはこういうものよ」
影の足元で、見えぬ呪縄が幾重にも張られたように泥が震えた。貞盛の目の前に現れたのは、業病に侵された父の姿、良兼の罵声、他田真樹の討死――貞盛が最も深く隠していた恐怖だった。
「やめろ……やめろ……!」
貞盛は悟った。――この闇は鏡のように心を映すのだ、と。
荒影が、いつの間にか貞盛の背後に立っていた。
智影は、その足元に寄り添い、泥濘の上で静かに形を揺らした。
貞盛は太刀を振り下ろす。だが、影はただ揺れただけで、刃は空を切った。
「なぜ……斬れぬ……!」
二体の将門は実体を持たず、斬れないのに、そこに「いる」。
しかし確かな存在感を放っていた。その矛盾が、貞盛の心をさらに揺らした。
「お前も同じ闇を抱えているのだ」
智影は、静かに貞盛に囁いた。
膝から力が抜ける。それでも太刀を落とさなかった。
退けば、そこには死しかなかった。
七影の姿には、門葉として同じ血を分けた男――かつての将門の面影が確かに宿っていた。だが、その奥に巣食う狂気は、もはや人のものではなかった。
「将門……! 貴様は、何になった……!」
その声は、精神の崩壊に直面した男の悲鳴だった。
貞盛の胸で、憎しみがさらに鋭く尖った。
その瞬間、羅睺が貞盛の魂に舌を伸ばした。積み重なった怨火の味を知る羅睺は、貞盛の心の奥に潜む憎しみを、甘い蜜のように舐め取ろうとしていた。
貞盛は、ようやく理解し始めていた。
「我のこの憎悪は、敵を討つための刃ではない。自分の魂を喰らう炎だ」
七影が揺らぎ、羅睺の黒い瞳が貞盛を覗き込む。
「……これは、もはや人の戦ではない」
貞盛は泥濘に沈む足を踏みしめ、死の影と孤独の影を背に感じながら、再び太刀を握り直した。
「だが――人の手で終わらせねばならぬ……」
その姿は、星神の降臨に呑まれゆく戦場で、なお「人」として立とうとする者の最後の灯火のようだった。
一方、秀郷は戦場を見渡し、湿原の地形と兵の流れを読んでいた。
寡兵の殲滅に最適な陣形を敷き、すでに勝利は約束されたかに思われた。
だが、その視線の先には、刃の将門の漆黒の巨躯が屹立していた。
「き、貴様、将門かッ!」
刃の将門――誓影は、泥に沈まぬ地筋を正確に踏み、秀郷の布陣の「継ぎ目」へ向かって一直線に進む。
「そこだ!」
誓影が陣の脆い部分に騎馬を突入させた瞬間、秀郷軍の陣形は音を立てて崩れた。
秀郷は息を呑む。
「……俺の戦場の理が、断たれた……だと?」
誓影が値踏みするように秀郷を見返す。
秀郷は初めて己の戦術が“通じない敵”を前にした。
「戦の理を読む者よ。だが、その程度の戦術眼では新皇に勝てぬ」
秀郷は陣形を立て直そうと叫ぶが、その指令は兵に届かない。
和影――孤独の将門が、葦原の奥で伝令を断ち切っていた。馬具の紐が切れ、旗が落ち、秀郷の声は湿原に吸い込まれて消えた。
「孤立させられている……!」
和影は静かに秀郷の背後へ立った。
「孤独は、兵を生殺しにする」
秀郷は振り返るが、和影の姿は音もなく消えた。
秀郷が兵を鼓舞しようとした瞬間、義影――野心の将門が戦場を駆けた。
「秀郷。お前の兵に、もう未来はない」
義影が折れかけた秀郷の軍旗を掲げると、秀郷軍の兵は自分たちの敗北を悟った。
「……兵たちの士気が……奪われていく……!」
義影は秀郷の目を見た。
「汝が野心を抱けば抱くほどに、汝の未来は奪われていくのだ」
貞盛と秀郷が最後に目にした将門は、王影――将門本体であった。
王影は無言で二人を見下ろした。
「終わりだ。汝らに勝利はない」
その声は、天意そのものだった。
王影の威圧に触れた瞬間、貞盛は膝を折り、秀郷は槍を落とした。
貞盛は息を呑む。
「……貴様も、将門……なのか……?」
王影は静かに首を振った。
「汝らには絶望を与えてから、最期に殺す。首を洗って待っておれ」
不敵な笑みとともに光が消え、将門の影は戦場の中央へ戻った。
七人の将門は、炎で前線を焼き尽くし、秀郷の陣形を容易く破り、伝令を断ち、兵の心を折り、士気を奪った。将門の七つの異相が、戦場そのものを支配していた。
貞盛と秀郷が気付いた時には、戦場には味方の屍が累々と山をなしていた。それこそが、最後に出会った将門――王影の告げた死の相であった。
秀郷は震えた。
「これは、もはや戦ではない。……蹂躙だ」
戦術家としての視線が、七影の動きを理解できなかった。
「……理解できぬ。敵の動きが……読めぬ。……理が通じぬ……」
秀郷は初めて、自分の戦術眼が“無力”であることを悟った。
「……これは……神々の戦だ!」
その瞬間、秀郷の心は折れた。




