北山の戦雲
天慶三年(九四〇年)二月十四日。
夜の名残が薄墨のように地を覆い、まるで大地が戦を予感して身をすくめたかのように、冷たく沈黙している。
将門は、下総国幸嶋郡・北山に立ち、まだ目覚めぬ戦場を見下ろしていた。眼下の低湿地は、夜のあいだに蛟が腹を擦って這った跡のように黒く濡れ、ところどころに浮いた泡が弾けるたび、泥の底からは経文を逆さに唱えたような低い響きが、どこからともなく聞こえてくるようであった。
「――ここが、坂東の命運を決する地」
やがて、東の空がわずかに白み始める。曙光は湿原の靄を透かし、黒い水面を銀色に染めていく。
将門は、静かに息を吸った。湿原の匂い、葦のざわめき、崖に反響する風の音――すべてが、今日という日の到来を告げていた。
「――この刻を、余は待っていた。いまこそ現世は転じ、秩序は覆る」
将門の主力である舎弟の黒騎馬は、坂東各地の治安回復のため散っていた。北山に残る味方は、猿島・相馬の精鋭――わずか四百余の兵。対する貞盛・秀郷の敵軍は四千。兵力差は十倍。常ならば、戦う前から勝敗は決している。
だが、天津甕星と半ば溶け合った新皇・将門にとって、目の前の四千の敵兵も、やがて都から下るであろう征東大将軍の大軍も、もはや古い秩序を焼き尽くすための薪にすぎなかった。
「――来るべき王道楽土のため、贄となるが良い」
将門の全身には、星神・天津甕星の神威が力強く脈打っていた。その脈動は、将門の心臓と重なり、人の理を超えた闇が、将門の肉体と魂をゆっくりと侵食していた。
「天意たる我に抗うなど、熊に挑む蠅が如きものよ」
貞盛と秀郷の連合軍四千が北山の湿原へ足を踏み入れた。だが、坂東の湿原は、土地を知らぬ者を迷わせ、知る者にも気を許さぬ。葦原は視界を遮り、泥は兵の足を奪い、一歩踏み込むたび、まるで生きて還る望みを奪うかのように深く沈んだ。
将門はゆっくりと口を開いた。
「星に捧ぐ血の饗宴は、我が一声とともに始まる。」
その声は、将門のものか天津甕星のものか、もはや判然としない。
「――さあ、賊徒を裂け。戦を開け!」
未申の刻――午後三時ごろ、戦いの火蓋は切られた。
新皇の号令に応え、下総守・五郎将為の率いる相馬黒騎馬が貞盛の陣へ突入した。北風を背に、泥を蹴り上げて一気に攻め立てる。
狙いは本陣――大将首であった。
風下の連合軍へ国巣衆が弩を浴びせ、将門勢は畳みかけた。
瞬く間に、貞盛の近習百余人が泥の中へ沈んだ。
北辰(北極星)を背に、追い風を受けた将門軍は、死兵の勢いでさらに前へ出た。
本陣の天幕の奥で、貞盛は息を荒げていた。
逆巻く風に阻まれ、矢は思うように飛ばない。
握りしめた弓の革巻きが、汗でぬめる。
将門に自尊心を踏みにじられた怒りは、幾度も胸の奥で燃え上がった。だが今、その火に混じっているのは、将門への憎悪だけではなかった。将門を魔人に変えた闇への、形容し難い恐れであった。
「必ず……討つ。討たねばならぬ……」
そう口にしなければ、足元の泥に心まで引きずり込まれそうであった。
日光颪が葦原を叩くなか、戦いは白兵戦へ移り、湿原は怒号と祈り、血と呪いの異界へ変わった。猛攻の末、敵兵は葦原へ散り、貞盛のもとに残る者はわずか三百余人にまで減っていた。
将門は泥と血の匂いの中で、低く呟いた。
「頃合いだな……」
将門が天を仰ぐと、白昼の空がゆっくりと翳りはじめた。太陽の縁が黒く欠け、まるで夕闇へ沈むように光を失っていく。太陽が完全に呑まれた瞬間、空の中央に黒い輪が浮かぶ。まるで夜が昼へ侵入してきたかのように、世界が漆黒の闇に染まる。
黒い輪の周囲に、あり得ない光景が広がる。昼の空に、星々がひとつ、またひとつと灯り始めたのだ。
星々は日蝕の闇へと吸い寄せられ、密度を増していく。
七曜(北斗七星)が黒金の光を帯びて脈動し、輝きを落としながら、軌道をゆっくりと傾けていく。
七曜は将門の背後へ降り立ち、湿原の泥に沈む怨念を吸い上げながら、七つの影を結び、人の形を成した。それは日蝕の闇から生まれた“影の化身”だった。
貞盛は震え、秀郷は息を呑んだ。
そこに立つのは人ではない。星神の力が、将門という器を通して地上へ降りたものだった。泥濘の上に立つその姿は、まるで将門の魂が七つに裂け、それぞれが独自の意志を持って現世へ歩み出たかのようだった。




