湿原に立つ影
その頃、湿原の奥で、将門の影は静かに揺れていた。
闇の底に沈んだように静まり返る湿原に、葦は風もなく立ち尽くし、泥濘は黒い鏡のように空を映す。その鏡面には、ときおり空にない星が裏返しに瞬き、見た者の名をぬるく呑み込んでいくようだった。
その中心に、将門はひとり立っていた。
重瞳の奥の黒い焔は、これから訪れる因果を静かに見つめていた。
石井が炎に包まれた報せは、まだ彼の耳には届いていない。
だが、湿原の空気はすでに異様に重く、まるで坂東そのものが息を潜め、葦の根に沈んだ死者たちまでが、将門の影を見守っているかのようだった。
将門の影は、焚き火もないのに濃く伸びていた。
光源のない闇の中で、影だけが形を変え、ときおり二重に揺らめく。揺れるたび、そこから濡れた経文を裂くような、かすかな音がした。
重瞳の奥の光が、湿原の闇に淡く滲むたび、影はまるで生き物のように脈動し、泥の下で眠る骨がそれに応えて鳴るようだった。
星神の闇は、将門の精神を依り代として現世に根を張り、その力は衰えることなく増幅していた。将門の肉体は魔人のように膨れ上がり、人としての境界を越えつつあった。
星神の闇を宿した将門。
雷神の加護を得た秀郷と貞盛。
両者が再び戦場で相まみえる刻は、目前に迫っていた。
将門が頼みとする黒騎馬の援軍はまだ来ない。相模・伊豆・安房・上総――諸族の包囲網に阻まれ、精鋭である彼らでさえ湿原へ辿り着けぬまま、日だけが過ぎていった。
将門は、葦のざわめきすらない静寂の中で、ただ一点を見つめていた。
湿原の奥、闇の向こう――黒騎馬が現れるはずの方角を。
そのとき、湿原の底から、かすかな震えが立ち上った。
地鳴りではなく、風でもない。葦が揺れたわけでもない。
ただ、影が――将門の影が、ひとりでに膨らんだ。地に落ちた影ではなく、地の底で百年煤けた呪符が、湿った息を吐いて這い上がるように。
将門は、静かに息を吸った。その胸の奥で、何かが確かに目覚めた。
やがて、影は地面から離れ、将門の背後に立ち上がるように形を変えた。その輪郭は、将門と同じ背丈で、同じ肩幅で、同じ重瞳の光を宿していた。
将門は振り返らない。影が何であるか、すでに知っているかのように。
湿原の闇が、さらに深く沈んだ。葦の間から、別の影が立ち上がる。泥水はその足元で泡立ち、名を呼ばれた死者の口のように小さく弾けた。泥濘の上に、またひとつ。そして、またひとつ。七つの影が、呪符を置くような間合いで、湿原に並んだ。
どれも将門と同じ背丈で、同じ輪郭で、同じ重瞳の光を宿している。
だが、どれも将門ではない。
どれも、将門の“影”が形を得たものだった。
――それは、将門自身が呼び出したものだった。
七人将門――湿原には、七人の将門が立っていた。
湿原の闇が静かに震え、七人の将門を抱くように揺れた。
重瞳の奥の光が、七つの影を照らす。その光は、因果を見通す者の光だった。
その光に触れた泥は、濡れた墨のように黒ずみ、古い怨嗟を吐き出すように泡を噴いた。
影は、将門の孤独を埋めるために現れたのではない。
国を失い、民を失い、なお己が影を刃として立たせるためである。
将門は己の影を裂き、戦場へ放ったのである。
次に月が雲間を出るとき、敵が見る将門は一人ではない。




