僻事の遺恨
数日後。忠平邸の東の廊を、国豊は文を抱えて小走りに進んでいた。――そのとき、政所から出てきた田原藤太秀郷とぶつかった。
「ぬッ、豎子……」
野太い声に、国豊は思わず身をすくめた。
「汝を、知っているぞ」
秀郷は国豊をぎょろりと見下ろし、薄く笑った。
「蔵人仲正の庶子であろう。汝は各所で有名だからな、嫌でも噂が耳に入る」
その声音には、ただの侮蔑ではない、もっと古く深い“澱”のようなものが滲んでいた。
――奈良の昔、藤原北家の祖・房前の子、魚名は、同族の式家・藤原種継と対立し、天武天皇の曾孫・氷上川継の謀反に連座して罰を受けた。後の世に名誉こそ回復されたものの、その後裔の明暗は残酷なほど分かれた。山蔭流は堂上に侍り、帝の近くで家格を保った一方、秀郷へ連なる系統は地下に沈み、受領・国司として地方へ散った。
同じ魚名の血を引きながら、一方は都の殿上へ、もう一方は地方の土煙の中へ――。しかも国豊の父・蔵人仲正は、従三位・中納言に昇った山蔭卿の孫にあたる。秀郷の目に映る国豊は、ただの庶子ではない。己の系統が昇ることのできない地位を、生まれながらに享受する山蔭流の末裔であり、積年の屈辱そのものだった。もちろん国豊は、そんな血の遺恨など知る由もない。
ただ、あまりに突然で、あまりに凄まじい秀郷の形相に、国豊は身を震わせた。だが、秀郷の目には苛立ちと嫉妬が混じっていた。この男が自分に向ける悪意だけは、はっきりと感じ取れた。
「卑しい女の腹から生まれた庶子が、なぜ忠平卿の屋敷で大きな顔をしている。いかにして宮中へ入り込んだのだ」
国豊の胸に、熱いものがこみ上げた。
(この男は何だ……? なぜ……我が母を卑しめる……?)
涙がこぼれそうになったが、怒りがそれを押しとどめた。
国豊は、精一杯の罵声を秀郷に浴びせた。
「我はお前など知らぬ! 卑しく下賤なのは、お前の方だ!」
秀郷の顔が歪んだ。
「……おのれ、この豎子めが。身の程を……」
――そのとき、
「何をしている!」
鋭い声が廊に響いた。
将門が立っていた。左の瞳が、光を受けてわずかに揺れた。
秀郷の顔が強張る。
「……小次郎将門」
将門は国豊の前に割って入り、立ちはだかって秀郷を見据えた。
「おのれ、恥を知れ! 健気な童子を脅かすとは……武家の面汚しもここに極まったな」
秀郷は唇を噛んだ。
「……滝口の小次郎殿には関わりのないこと」
「あるさ。国豊は、この俺が守ると決めた」
秀郷の目が怒りで燃えた。
「ほう……この童子を守るために、この我と斬り合うとでも言うか」
「汝がそのつもりなら構わん。俺は強いぞ」
将門のその言葉に、秀郷は激高し、太刀に手をかけた。
将門は冷ややかに言った。
「馬鹿か。世話になっている卿の邸で、しかも身を隠している分際で、ここで抜く気か」
秀郷の手が止まった。秀郷は悔しげに歯噛みし、目を剥いて国豊を睨みつけると、そのまま去っていった。
将門は国豊に振り返り、ふっと笑った。
「気にするな。秀郷は気が短い」
春風に御簾が揺れる。若灯と火種と刃――三つの運命が、静かに交わり始めていた。国豊は、胸の奥がざわつくのを感じた。




