破軍の揺光
夕つ方、陰陽寮の庭には昼の名残と夜の気が入り交じり、風さえも息を潜めるようであった。竹葉はかすかに騒めき、どこからともなく漂う沈香の煙が、天意の訪れを待つかのように揺らめいていた。
賀茂忠行は、式盤を前に半眼のまま静かに座し、香炉に沈香をくべた。立ち上る香煙は春の湿り気と混じり、濃く鼻腔を満たす。その香りは、目に見えぬ“何か”の到来を告げるかのようであった。
やがて、滝口の小次郎――平将門が姿を現した。濃紺の直垂に浅葱の指貫をまとい、背丈は人より頭一つ抜けている。歩むたび、衣の裾が春の風を切り、若者とは思えぬ重みを周囲に落とした。
将門は無造作に腰を下ろした。
「忠平卿に言われて来た。占いなどに興味はないが……好きにせよ」
その声音には、若武者の傲りではなく、“己の運命など知るまでもない”という静かな諦観が潜んでいた。だが、夕光を受けた左眼には、確かに二つの黒い瞳が揺れていた。
(やはり……重瞳。天命を負う者に現れる異相……)
忠行の胸が、ぞくりと震えた。
忠行は式盤に手を置き、低く呪を唱えた。風がぴたりと止み、やがて庭の竹がざわりと鳴った。式盤の針が、ひとりでに震え始める。
「吉……。そして――凶。どちらにも振り切れ、どちらにも定まらぬ……」
将門が眉をひそめる。
「どうした」
忠行の顔色が変わった。
「……まるで天が、あなた様をどう扱うべきか迷っているような……いや、恐れているのかもしれませぬ……」
将門は鼻で笑った。
「天が迷う? そんなことがあるか。春の風に揶揄われたのであろう。あるいは、天が我を嘲り、愉しんでいるのかもしれぬ」
だが忠行は、式盤から目を離せなかった。
「天を仰げば、ひときわ明るく輝く星がございます――北辰。それは天帝の座」
忠行は震える声で続けた。
「その周りを巡る北斗は帝車、七曜の星は天帝の七つの力……すなわち七元君を示すと申します。そして、その北斗に座す揺光こそ、あなた様の命運を映す破軍の星にございます」
やがて忠行は、何かに取り憑かれたように語り出した。
「破軍星――破壊と戦禍を招く。古き世を壊し、新しき時代を拓く星。あなた様は、そのような宿命を負っておられる……」
忠行は将門の左眼を指して言った。
「国を揺るがす厄災の相。……だが同時に、英雄の相……覇者の相……」
忠行の声は震えた。
「あなた様は天に愛され、同時に恐れられている」
式盤の針はなおも狂ったように揺れていた。
将門はしばらく黙し、やがて静かに立ち上がった。
「占いは占いだ。天が俺などを恐れるはずがあるまい。汝の恐れが盤に映っただけだ」
そして、ふと低く呟いた。
「だが――もし天が答えをはぐらかすなら、それは天が人には隠しておきたいことなのであろうよ」
その言葉は、春の空気を裂くように鋭かった。
忠行は、その大きな背に深い影を見た。それは日差しの中でひときわ濃く伸び、やがて都を、国を覆わんとする兆しのように、忠行の胸に言いようのないざわめきを呼び起こした。
将門が去ったあと、陰陽頭の老官が静かに言った。
「忠行よ。いずれ国を揺るがすやもしれぬ御方よ。英雄となり王道楽土をもたらすか、国難を招き、国を割る逆賊となるか……今はまだ、天も決めかねておる」
忠行は式盤の前に膝をついた。針はまだ震えている。
(あの御方は、今はまだ炭櫃に眠る火種。されど、ひとたび火焔となれば、この国の古き秩序をことごとく呑み込み、焼き尽くすであろう)
忠行は唇を噛んだ。
春の風が吹き抜けた。式盤の針は最後にひと震えし、何事もなかったかのように、かすかな余韻を残して止まった。




