春雨の噂
春の雨が、小一条の忠平卿の庭に細い糸のように降りていた。
白砂に落ちる雨粒は静かに弾け、若葉の匂いが空気に満ちている。
池の面には薄紅の花びらが散り、風に揺られて円を描いていた。
その日、左大臣・藤原忠平卿は、中務卿・敦慶親王――玉光宮を迎えていた。
玉光宮は濃紫の直衣に白の指貫を合わせ、雨に煙る庭を眺めながら微笑んだ。
「左大臣殿、春雨の庭を眺めるには、これほどの邸は他にありますまい。」
忠平卿は静かに頭を下げた。
「宮がお越しくださるとは、恐れ入ります」
玉光宮の後ろには、陰陽頭の老官と、若き賀茂忠行が控えていた。
忠行は緋の袍をまとい、若いながらも鋭い眼差しを宿している。
玉光宮は扇を揺らしながら言った。
「左大臣殿、宮中では、卿の小舎人が陰陽寮の忠行を論破したと噂でな。姫宮の御簾の奥にまで届いておるようだ。」
忠平卿は、わずかに微笑んだ。
「国豊は、まだ幼いながら理を好む子にございます。ただ、噂の類にございますれば、宮中の花のようなものにて。」
玉光宮も笑みを返した。
「うむ、あれは春の戯れよ。――だが、今日の話はそれではない」
扇の動きが止まった。
忠行が一歩進み出る。
その眼は、国豊の噂などとうに忘れたように、もっと深いところを見つめていた。
「左大臣さま……実は、あの日、清涼殿の簀子縁にて、滝口の小次郎さまを拝見いたしました。」
忠平の扇が、かすかに揺れた。
「小次郎……将門殿を?」
忠行は静かに頷いた。
「はい。あの方の左の眼……光の加減かと思いましたが、どうにも重瞳に見えました。」
忠平卿は低く息を呑んだ。
「重瞳……楚の項羽がそうであったと伝わる、英雄の相、覇者の相……」
玉光宮の声は、雨音に溶けるように静かだった。
忠行は続ける。
「国家の命運を左右する時にのみ現れると伝わります。あれは、ただの武人の相ではございませぬ。」
忠平卿の胸に、冷たいものと熱いものが同時に走った。
(将門……あの若者が……?
国豊の若灯とは異なる、もっと大きな火が……)
忠行は深く頭を下げた。
「左大臣さま。どうか一度、将門さまの占をお許しください。これは、ただの好奇ではございませぬ。」
玉光宮も静かに言葉を添えた。
「忠行の目は確かよ。わたしも、あの偉丈夫には尋常ならざる気配を感じる。」
忠平卿は長く息を吐き、雨に濡れた庭を見つめた。
薄紅の花びらが池に落ち、静かに波紋を広げている。
「……よい。将門殿には、そなたの願いを伝えよう。
ただし――、試すためではなく、あの者の灯を、正しく導くための占であれ。」
忠行は深く頭を下げた。
「は、はい……肝に銘じます」
玉光宮は雨に煙る庭を眺めながら呟いた。
「重瞳……天が遣わす者か、あるいは……」
忠平の胸には、若灯とは異なる、もっと大きな火種が、春雨の奥で静かに燃え始めている気配が、確かに広がっていた。
玉光宮が忠平邸を訪れから数日、清涼殿の簀子縁で、宮中の小舎人(童殿上)が陰陽寮の若官を理で詰めたらしいとの噂は、まるで春の霞のように宮中の隅々まで広がっていった。
春の宮中は、光と影が複雑に交わり、女房たちの噂話が風よりも早く広がる季節であった。
「聞きました? あの坊が、陰陽寮の忠行殿に理を説かれたとか」
「ええ、『罪なき者に罰はない』と、まるで学者のように申されたそうですよ。」
「滝口の小次郎さまも褒めておられたとか。」
「小次郎さまが? あの方が童子を褒めるなんて珍しいわ。」
「それだけ、聡いということでしょうね。」
女房たちの声は、御簾の影をすり抜け、弘徽殿へ、後宮へ、そして――皇女のもとへと静かに流れ込んでいった。
その日、皇女は北廂で文を写していた。春の光が御簾を透かし、金の糸のように揺れている。
侍女の弁子が、そっと近づいて囁いた。
「姫宮さま……」
皇女は筆を止め、静かに顔を上げた。
「何かしら」
弁子は声を潜めた。
「清涼殿で、面白い噂があるようですよ。」
皇女のまつげが、かすかに揺れた。
「なんでも小舎人のひとりが、陰陽寮の若官に理を説かれて……怨霊だの祟りなど理に合わぬ、と申したとか。」
「……小舎人?」
弁子は頷いた。
「はい。噂では、数年か前に、あの笛を吹いてくれた坊のようなのです。」
春の風が御簾を揺らし、影がゆらりと揺れる。
(笛の音のように澄んだ心を持つ子……)
皇女は御簾の向こうの光を見つめ、胸の奥にそっと手を当てた。
そこには、確かに温かいものが灯っていた。
(また……あの笛を聞きたいな。あれから…そう、三年ほど経つのかしら…)
その願いは、誰にも言えぬまま、春の夕影の中で静かに息づいていた。
春の雨はなお静かに庭を潤し、そのしずくのひとつひとつが、まるで宮中に広がる噂のように、音もなく世界を満たしていった。そして、その雨に紛れて灯った小さな光は、忠平の胸にも、御簾の奥の皇女の胸にも、確かに息づき始めていた。
春雨に、若灯はそっと世に明かりを添えたのであった。




