簀子縁の論
春の光が清涼殿の簀子縁に降りそそぎ、白木の柱は金砂子を散らしたように輝いていた。御簾の向こうには沈香が漂い、女官たちの衣擦れの音が静かに重なる。
だが、宮中はどこか張りつめた空気をまとっていた。
――近ごろ、”菅原道真の祟り”が囁かれている。
その日、主上の御前で、中務卿が、陰陽寮の官を伴い祈祷の報告を行った。中務省は八ある省の筆頭格とされ、この時の中務卿は主上の弟君である敦慶親王であった。この卿は、玉光宮と称されるほどの容姿端麗さでも知られ、大変優雅な方であったと云う。
この日も、玉光宮を一目でも見ようと、五、六人の女官・女房が、少し離れた廊などで、宮が退出されるのを控えていた。
中務卿に随伴したこの官は、陰陽寮の官で、名を賀茂忠行という。
まだ二十にも満たぬ青年で、緋の袍の袖を緊張で固くしている。
卜占、天文、暦の作成など国家の大事に関わっていた陰陽寮は、主上の側近として宮中の事務全般を司る中務省の被管にあった。
忠行が清涼殿の廊を一人で歩いていると、控えていた女官が声をかけた。
「今日も、道真公の祟りのことを……?」
青年は深く息を吐いた。
「はい……主上は大層お心を痛めておられます。皇太孫殿下まで……」
その会話を、廊を走っていた国豊が、ふと足を止めて聞いてしまった。
浅葱の袴に白い単衣、まだ幼い総髪。だがその瞳は、春の水面のように澄んでいた。
国豊は、そっと近づいて言った。
「怨霊というのは……恨んだ相手を祟るのでしょう?」
忠行は驚き、国豊を見下ろした。
「そ、そうでございます……」
「では、なぜ罪のない幼い皇太孫さまが亡くなられたのですか?」
国豊の声は静かだった。
「罪があるから罰を受けるのであって、罪がないところに罰はないはずです。」
青年は口を開いたまま固まった。
女官が思わず袖で口元を押さえる。
国豊は続けた。
「もし不幸が起こるとすれば、それは怨霊の故ではなく、天のさだめではありませんか?」
「……天の、さだめ……」
青年は言葉を失った。
さらに国豊は、幼い眉を寄せて言った。
「それに、菅原道真公は、生きておられたとき理知的で、律令にも通じておられたと聞きます。」
「はい……それは、まことに……」
「生きているときに賢かった人が、死んだ途端に愚かになるはずがありません。」
「……」
「もし、誰もが死んだら訳がわからなくなるのなら、常世には愚か者しかいないことになります。」
「そ、それは……」
「それでは、あの世の神も仏も愚かだ、と言っているのと同じではありませんか?」
忠行の顔は真っ赤になり、次の瞬間には真っ青になった。
そのとき、簀子縁の柱にもたれ、静かに様子を見ていた若い侍がいた。濃紫の直垂に浅葱の指貫、烏帽子は端正に結ばれている。かなりの背高でひと際目立つ。
滝口の小次郎……平小次郎将門である。
滝口の侍(宮中警護)として清涼殿の庭園を巡回していた、若き武者の姿だった。
小次郎は、堪えきれずに吹き出した。
「ははっ……まいったな。」
青年がびくりと振り返る。
小次郎は国豊の肩に手を置き、にかっと笑った。
「藤の若君の言うとおりだ。怨霊だの祟りだの、そんなものに振り回されるのは愚か者よ。道真公は、大宰府に左遷されてからの道真公は、己の過誤のみを悔いて、他人を責めることがなかったと聞く。」
「小次郎さま……」
国豊は驚いたように見上げた。
「道真公ほどの賢者が、死を境にして急に愚かになるはずがない。其方の言葉は、まっすぐで、理にかなっている。」
小次郎の声は、春の風のように温かかった。
忠行は、恥ずかしさに耐えきれず深々と頭を下げた。
小次郎は笑いながら国豊の頭を軽く撫でた。
「其方は聡いな。元服を前にして、もう陰陽寮の官を論破するとはな。」
国豊は頬を赤らめ、うつむいた。
だがその胸の奥には、“自分の言葉が誰かに届いた”という小さな灯が、確かに灯っていた。
その夜、陰陽寮の官舎で、忠行はひとり灯火を見つめていた。
国豊の言葉が、耳から離れない。
「生きて賢い者は、死んでも賢い」
「罪なき者に罰はない」
(確かに道真公は、主上を逆恨みするような下賤な人格ではない…)
「……天のさだめ」
青年は、ふと呟いた。
「…それにしても、あの滝口の左眼……あれは「重瞳」…」
灯火が揺れ、若き賀茂忠行の影が長く伸びた。




