春宵の笛
その夜、清涼殿はいつになく静かだった。
春の風が御簾を揺らし、灯火の影が畳に淡く揺れている。
皇女は、ひとり清涼殿の北廂に座し、祈りの文を写していた。その背には、十四歳の少女には重すぎる“役目”がのしかかっていた。胸の奥に、言葉にならない痛みが広がった。祈りの文を写す筆先が、ふと止まる。
「……わたくしは、どこへ行くのだろう」
その呟きは、誰にも届かぬはずだった。
だがそのとき、ふと、御簾の向こうで小さな気配がした。御簾の外から小さな足音がした。迷い込んできたのは、一人の殿上童、――国豊であった。夜の用事を終え、帰り道を間違えたらしい。
女房が慌てて声を上げる――。
「其処の小舎人よ、此処がどこか分かっているのかえ。姫宮さまの御殿であるぞ。」
国豊は青ざめ、震えていた。
「これ、姫宮さまのお側を穢してはなりませぬ。」
そのとき、御簾の奥から皇女の声が静かに響いた。
「……よいのです。」
女房たちは息を呑んだ。
皇女は御簾の向こうから、そっと手を差し伸べるように言った。
「よいのです。――こんなに澄んだ瞳の童が穢れている道理がありましょうか。」
国豊は御簾の前に膝をつき、深く頭を下げた。
「こちらへおいで。菓子を召し上がれ。」
恭しく平伏した儘、国豊は恐る恐る近づき、震える手をゆっくりと伸ばして、栗をひとつ口に運んだ。
その瞬間、国豊は自然な笑顔で、
「ああ、美味しい!」
と、口許を綻ばせて言った。
その姿を見た瞬間、皇女の胸の奥で、何かがほどけた。皇女の胸に、久しく忘れていた“温もり”が灯った。
(ああ……この童子の前では、わたしは“皇女”ではなくて良いのだ。)
春の夜気が清涼殿を包み、灯火の影が揺れる中、皇女は御簾の奥で静かに座していた。
「坊よ……笛を、吹いてくれませんか。」
国豊は頷き、忠平から贈られた水楓をそっと取り出した。
この笛の音は、春の夜気に溶けるように柔らかく、どこか幼い日の記憶を呼び起こすようだった。
「わたくしね……ずっと、ひとりだったのです。」
国豊の指が笛の孔を押さえる力が、ほんの少しだけ強くなった。
最初の音が清涼殿に満ちた瞬間、皇女の肩がわずかに震えた。
国豊の笛が、澄んだ水のように流れ始めたとき――女房たちは、ふと気づいた。
姫宮さまの肩が、わずかに震えている。
御簾の外の女房たちは息を呑んだ。
「母君の顔も……姉君の声も……わたしは、何ひとつ覚えていないのです」
御簾の向こうで、ぽたり、と小さな音がした。涙が、畳に落ちた音だった。
「……姫宮さまは、泣いておられるのか。」
その声は、誰にも聞こえぬほどの囁きだった。
若い女房・小少将は、唇を噛みしめた。
「姫宮さまは、いつも……、わたくしたちの前では、決して涙など……」
弁子は静かに首を振った。
「お強いのではないのです。泣くことを許されぬお立場なのです。」
その言葉に、小少将は胸が締めつけられた。
笛の音は、皇女の涙を包むように、さらに柔らかく、静かに流れた。
皇女はその音に身を委ね、涙を拭おうともしなかった。
皇女の声がかすかに震えた。
「坊の、笛の音だけが、わたくしの心を癒してくれる……」
その言葉は、御簾を隔てていても、女房たちの胸を深く刺した。
御簾の向こうで、二筋目の涙が落ちた。小少将は思わず、御簾に手を伸ばしそうになった。
「姫宮さま……どうか、わたくしたちにお頼りくだされば……」
だが弁子がそっとその手を押さえた。
「いけません。姫宮さまが涙を見せられるのは、あの童だけなのです。」
国豊は笛を吹きながら、幼い胸が熱くなるのを感じていた。
自分の音が、誰かの涙を受け止めるなど、思いもしなかった。
弁子は、御簾の向こうの皇女に向けて、声には出さず、心の中でそっと語りかけた。
(姫宮さま……どうか、その涙を恥じらわないでくださいませ。わたくしたちは、あなたさまがどれほど孤独であられたか、ずっと見てまいりました。)
小少将もまた、胸の奥で祈るように呟いた。
(どうか……どうか、あの童子が姫宮さまの御心を支えてくれますように。)
女房たちは、皇女の涙を止めようとはしなかった。止めることができないのではない。止めてはならない涙だと知っていたからだ。
その夜、皇女は生まれて初めて、“誰かの前で泣くこと”を許した。
そしてその相手は、十にも満たない歳の殿上童――国豊だけだった。
(どうか、この童子が……姫宮さまの孤独を照らす灯となりますように。)
笛の音が静かに続く中、女房たちは深く頭を垂れた。
その祈りは、誰にも聞こえぬまま、清涼殿の夜気に溶けていった。




