禁呪の代償
霊戦は、人の目には映らぬ次元で、音もなく進んでいた。
地の底からは星神の闇が瘴気のように湧き上がり、天からは雷神の霊力が白い刃となって降り注ぐ。その狭間で、見えぬ呪詛が髪の毛ほどの糸のように、双方の兵たちの魂に絡みついていた。
二つの力は湿原のただ中で交錯し、互いの領域を侵し合った。
雷光が走れば兵は怯え、闇気が渦巻けば陣形は崩れ、誰のものとも知れぬ呻き声が泥の底から湧き上がってきた。まるで、埋もれた死者が終わらぬ戦を欲しているかのようだった。
公津が原の護摩壇では、寛朝と忠行が祈祷を続けていたが、護摩の火炎は弱まり、二人の精神力も限界に近づいていた。神と呼ばれる存在を、次元の壁を越えて現世へ招く――それは驚嘆すべき霊性の業であった。
ーーしかし、その代償はあまりにも重い。
雷神の霊力は、異界から“召喚された力”である。
それは、寛朝と忠行の精神力によって、かろうじて現世に留め置かれている。
ゆえに、術者である二人が倒れれば雷神は退く。
寛朝の肉体には、精神の疲弊がそのまま刻まれていた。
激痛が全身を蝕み、口と鼻から血が溢れ、眼球は腫れ上がり、一時は昏睡に陥った。
弟子たちは慌てて寛朝を陣幕へ運び込んだ。
忠行もまた、魂の抜け殻のように護摩壇の前に座り込み、しばらく動けなかった。
国豊が手を取って助け起こすと、忠行は疲労の色を隠せぬ顔で、かすかに笑った。
「はは……さすがは寛朝様。私には少々、荷が重すぎるほど強力な神を降ろしたものです。」
国豊は、その言葉を聞きながら胸の奥に疑念を抱いた。
神と呼ばれるものは、秀郷のような男にも力を与えるのか。
古の神々は、人の善悪を超越した存在である。
星神も雷神も、ただ強大な力そのものであり、大自然の摂理そのものだった。
ゆえに彼らは善悪を選ばない。
神は依り代の性質を選ばず、ただ増幅する。義であれば義を、悪であれば悪を。
秀郷は雷神の霊力によって猜疑心が強まり、戦気は荒れ狂い、精神は限界へ近づいていた。
貞盛は雷神の加護によって生存欲が増幅され、執着は狂気へ変わり、精神は破滅へ傾いていた。
唐沢山に退いたあと、貞盛の瘡や腫物は全身へ広がり、激痛と高熱が続き、命の危機が迫った。
貞盛は恐怖した。父・国香王と同じ業病が、今になって己の身にも発したのではないか。血の奥で、古い呪いが目を覚まし、骨の節々に名を刻み始めたのではないか。
――もっとも恐れていた現実に、貞盛の精神は崩壊寸前まで追い詰められた。
(やがてこの瘡や腫物は膿み、顔面も崩れていくのか? やがて節々が変形し、醜い姿で、我も死ぬのか?)
都でも高名な医師を呼び寄せると、医師は周囲を見回し、声を潜めて囁いた。
「この悪性の瘡を治す薬はただ一つ。生きた胎児の生き肝を呑むほかありませぬ。」
貞盛は躊躇なく実行に移ろうとし、息子である左衛門尉・維将を呼び出して、淡々と命じた。
「汝の妻は妊娠しておるな。私の業病を治すため、その腹を裂いて胎児の生き肝を寄越すのだ。」
維将は動揺しながらも直ちに拒絶することができず、泣きながら医師に懇願した。
「父を騙して、妻と子を助けてほしい。」
医師は一計を案じ、貞盛に告げた。
「よく調べたところ、ご自身の血をひく胎児では効きませぬ。他人の胎児でなければなりませぬ。」
貞盛は郎党に命じ、身重の妊婦を何人も攫わせ、胎児の生き肝を抉り出して貪った。血の匂いは病を癒やすどころか、屋形の柱に染み込み、夜ごとすすり泣くように軋んだ。油皿の火は青く痩せ、畳の目には、洗っても落ちぬ赤黒い筋が残った。
「このような、おぞましい病と行いが露見すれば、末代までの恥辱じゃ。」
貞盛は、口封じのため、医師を暗殺するよう維将に命じた。
維将は耐えかねて医師を逃がした。
医師は京へ逃亡したが、貞盛は追手を放った。追手は医師の身代わりとなった判官代を射殺し、医師は辛くも都まで逃げ延びた。
こうして貞盛の悪行は世間の知るところとなった。
秀郷は、貞盛の見舞いに訪れた際、静かに言った。
「貞盛、汝はすでに人間を止めたか。」
貞盛は唇を歪めた。
「うるさい。放っておいてくれ。俺は、なんとしてでも生き抜いて栄達するのだ。」
秀郷は冷たく言い放った。
「獣でさえ獣の道を守って歩むものだ。道を外れた外道には、破滅しかないと知れ。
――汝もこのあたりで人の道に立ち返ることだ。」
唐沢山の空気は、その言葉を受けてなお重く沈んだ。




