重瞳に映る厄災
経明ら敗残の兵たちは、命からがら戦場を離脱し、泥と血にまみれたまま石井営所へ駆け込んだ。経明は倒れ込むように馬を降りると、その場に膝をつき、しばらく立ち上がることができなかった。寒さで手は悴み、肩を震わせ、吐く息は白く、荒い。顔面は蒼白で、唇だけが乾いてひび割れていた。
やがて将門の前へ通されたが、経明は平伏した儘、目線を上げることができなかった。己の軽挙が招いた惨禍の重さが、背骨を折るほどの罪としてのしかかっていた。その背は、もはや勇猛果敢な武将のそれではなく、罪人の影のように小さく縮こまっていた。
「本来ならば、まず主君にご報告申し上ぐべきところ……唐沢山に入る敵軍を認めるや、功を焦り、浅慮のまま直ちにこれへ攻めかかり申した。」
声はかすれ、言葉は途切れた。経明は拳を握りしめ、爪が掌に食い込むほど力を込めた。
「しかし、秀郷の罠に嵌り……我が手勢のみならず下野国府の友軍も全滅せしめ、下野守・将頼殿の留守を預かっていた坂上遂高殿は……討ち死にされました。――すべては、この経明の不明の致すところにございます。」
額を地に擦り付けたまま発する経明の言は、すでに、咎人の自白のようであった。経明は、友軍を見殺しにし、坂上遂高を死なせ、自分だけが尻尾を巻いて逃げ帰ったという事実を、誰よりも自分自身が許せなかった。
黒曜石の如き玄鱗の鎧身に白布を纏った将門は、目を瞑ったまま、暫く沈黙した。この将門の沈黙は、経明には刃よりも重く感じられた。
やがて、武神の如き威厳を湛えた静謐を破り、将門は、低く、短く言った。
「古来より、戦とは拙速を貴ぶもの。汝の判断に過誤は無い。」
経明は深く頭を垂れた。
「その罪は、汝自身が抱えてゆけ。失われた命は、いずれ汝が身をもって贖うこととなろう。」
経明の脳裏には、あの瞬間が閃光のように蘇る。
――坂上遂高は、最後の一騎となって敵陣に斬り込んだ。経明が振り返ったとき、遂高の胸に敵の矢が突き立ち、やがて、馬から崩れ落ちた。遂高が地に沈む瞬間、その瞳は、武士の見事な覚悟を宿していた――。
経明は、深く頭を垂れ、声を出して震えて哭いた。その記憶だけが、いつまでも胸を刺した。
星神の力は衰えつつある──だが、重瞳が映す遠景は、迫りくる厄災を静かに告げていた。公津ヶ原にある寛朝の護摩と呪によって、星神の神威は確かに弱まっている。それでも、将門の重瞳には、なお“残滓の千里眼”の異能は静かに灯っていた。
将門が目を伏せると、重瞳の奥底で、地の底から死者を呼び覚ますように陣太鼓が鳴り、法螺貝が響いた。その響きとともに、遠方の戦の気配が揺れ、平原に潜んでいた秀郷・貞盛の連合軍が一斉に動き出す光景を映し出した。
秀郷の先陣およそ三千――。騎馬五百、従者・伴類の歩兵千五百、俘囚の兵千余が黒い潮のように続く。その大軍勢は、下総国境を越え、弱まった星神の残光に照らされながら、将門の本拠へ迫っていた。
まさに、その時、荒く息をつく物見の兵が駆け込んできた。
兵が帰郷して手薄になった隙を突くかのように、
「秀郷・貞盛の連合軍が鬼怒川沿いを南下し、川口村(現在の結城郡八代町水口付近)まで迫っている。」
との続報が届いたのである。
星神の支配と守護が弱まった今、将門は「自分の意思」で、この危機に向き合わねばならなかった。
石井営所は、かつてないほど脆く、静まり返っていた。折しも季節は農繁期に入りつつあり、農民兵の多くは郷里へ戻っていた。将門の本拠に残る兵は、わずか五百余騎。
だが、将門は、ためらう暇もなく墨鱗の巨躯を起こし、床几を蹴って立ち上がった。




