調伏の火、灯る
古の闇は深く、神代の神話が、まだ地上に影を落としていた平安の世。人々は、天津神、国津神、怨霊も妖魔も、すぐ隣に息づいているものと信じていた。
幻想と呪術が支配するその世界で――星神・天津甕星が目を覚ました。
これまでに、東国では余りにも多くの血が流れ、民の怨嗟が積もりに積もっていた。星神は、それらを贄とし、常世に沈む無数の怨霊に呪をかけ、破軍の星御子――平将門を、自らの依り代として現世に降臨したのである。記紀神話の「まつろわぬ悪神」である天津甕星は、将門に神威を与え、坂東の地に沈む諸霊の怨念を憑依させた。
その結果、将門は、禍々しい幻影を纏った異形の者へと変化し、もはや、人としての記憶さえも失いつつあった。
――本陣に鎮座する将門の姿は、すでに人であったことすら忘れたようであった。両の眼には複数の眸が蠢き、全身を漆黒の鱗に覆われ、身の丈は七尺を超えた。化け物染みた膂力を持ち、背後には触手のような影が蠢いている。
一族郎党は、その異様さを知りながらも忠誠に欠けることはなく、新皇のためにその命を捧げる覚悟は一層強固となり、それはもはや信仰に近い。
新皇軍の掲げる軍旗は、妙見を象徴する九曜紋と月星紋の黒色の軍旗に一新された。
――まつろわぬ暗黒神の復活。それは、朝廷にとって 国の根幹を揺るがす災厄 であった。
これに対峙する寛朝は、黒の僧衣を身に纏い、息を整える間もなく護摩壇の構築に取りかかった。祈祷を行うための壇には、宇宙を象徴する円形の炉、――“胎蔵界の護摩壇” が据えられた。
通常、強大な怨敵を退散させる祈祷では、鋭利な角で敵を打ち破る「利剣」を象徴する三角の炉を用いる。――忠行は円形の炉を選んだ寛朝の意図が分からず、問いかけた。
「護摩壇の炉の形状は、三角形を用いるのではないのですか。」
寛朝は、穏やかな表情で諭した。
「これで良いのです。私は術者である前に、一介の僧侶です。不動明王は、宇宙の根本仏・大日如来の化身――教令輪身。如来の静かな智慧が、迷いを断つために厳めしい御姿となって現れたもの。明王の忿怒相は厳めしくとも、その本質は慈悲。星神の穢れや障碍を鎮め、将門殿とその郎党を、正しき道へ戻すための祈りなのです。」
――寛朝の願いは、将門に取り憑いた星神の呪を断ち、彼を“人”へと引き戻すことにあった。
その言葉を聞いた忠行は、己の浅さを恥じた。
(……多少、呪術に長けていると己惚れていたが、寛朝様の、そして仏法の、慈悲の深淵なることを、私は知らなかった……)
寛朝は円形の炉を中心に、塗香、花鬘、燈明などの供物を整然と配置していく。それは、秩序化された仏の宇宙――曼荼羅そのものであった。そして同時にこの壇は、外宇宙の混沌たる星神と直結する“霊的な扉”でもあった。
寛朝の敵は、ただ一柱、――星神・天津甕星である。その神威と真正面から相対し、目に見えぬ次元で一騎打ちを挑む覚悟は、すでに胸中に定まっていた。
護摩壇の周囲の空気は、張り詰めたまま動かない結界として張り巡らされた霊的な防護網の、その中心に据えられた護摩壇と不動明王像は、岩のように重々しく佇んでいた。
壇の周囲には、五大・五智を象徴する 青・黄・赤・白・黒 の五色の糸を撚り合わせた「五色の紐」が巡らされ、魔を縛り砕くための金剛線が幾重にも張られている。それらは天地そのものの理を編み込んだ霊的な結界であった。
その場の空気は、まるで天と地が息を潜め、これから始まる 霊性の戦い を見守っているかのようであった。
――夜明け前、寛朝は護摩壇の前に静かに座した。
最初の薪に火を入れた瞬間、大気が震え、霊的な異変が始まった。
寛朝は火天の真言を繰り返し唱えていく。
「オン・アギャナエイ・ソワカ……」
炎が天へと伸びると、黒煙は京都の寺社で行われている調伏祈祷と共鳴し、東国の空を赤黒く染め上げた。
「ノウマク・サンマンダバザラダン・センダ・マカルシャダ・ソワタヤ・ウンタラタ・カンマン」
寛朝の唱える大威徳・不動明王真言が地鳴りのように響き渡り、空間そのものを震わせる。
護摩壇から立ち上る聖火は、不動明王の智慧の炎、――怨敵を焼き尽くす“忿怒の火”である。
一方、将門の身体に鎮座する星神は、龍脈に撃ち込まれた強烈な法力を即座に感知した。
将門(星神)は激昂し、漆黒の魔剣を地に突き立てた。
その怒りの波動は大地を伝い、公津が原の護摩壇を根こそぎ揺さぶった。
護摩壇の炎が一瞬、紫色の星光に侵食され、寛朝の唇から血が一筋、静かに伝い落ちた。
やがて呪術戦は、視覚的な恐怖となって空を支配した。北方から、光を吸い込む漆黒の霧が押し寄せる。霧の奥には九曜紋が赤く浮かび、真昼の太陽を覆い隠した。護摩壇を守る兵たちは、その異様な光景に声を失い、ただ震えるしかなかった。
寛朝僧正が霊視した天津甕星は、形を持たず「人の作り出した秩序そのものを忌み嫌い、拒絶する意思」 として映った。
「――万物は、神が定めたる理に従うもの。現世の政は、悉く土塊から生まれた卑しき人の都合で生み出したるもの。神は、仮初に過ぎぬ人の世の政に謀反し、天下静謐を取り戻すものなり。」
星神の意思が、念のように寛朝へ流れ込んでくる。
寛朝は結跏趺坐し、静謐の中で呼吸と真言を整える。
護摩壇の炎が、寛朝の胸にある“恐れ”を燃やし尽くす。




