影を負う姫
幾日にも及ぶ苦難の道程を越え、寛朝一行がようやく目的地へと辿り着いたとき、迎えに現れたのは、反将門の旗を掲げた在地の豪族・官人たちであった。彼らは皆、将門がついに「新皇」を自称し、臣たる範を超え、朝廷に弓引いたその瞬間に、離反した者たちである。
香取神宮の在地神官でもある有力豪族の香取氏をはじめ、成田氏、鹿島氏ら古き名族が次々と寛朝ら一行に頭を垂れ、この苦難の旅を労った。
その列席には、香取氏の婿であり、信太浮島の領主・藤原国豊の姿もあった。国豊は、本拠地である浮島炎滅によって将門の許に庇護を求めたが、その後、将門に謀叛を諫めたことで袂を別ち、信太浮島領に戻っていた。
寛朝の下向は、彼らにとって朝廷との絆を再び結び直す唯一の光でもあった。挨拶が一通り済むと、寛朝は状況を詳しく聞きたいと申し出、香取氏の館へと案内される。
館の門前には、賀茂忠行を待ち受けていた国豊の姿があった。
「忠行殿、お久しゅうございます。書簡を頂き、急ぎ馳せ参じました。」
国豊は静かに周囲を見回し、ふと声を落とす。
「――滝姫さまは、どちらに?」
その問いに、忠行は目を細め、口元を緩めた。
「おやおや、国豊さまは相変わらずで。まず気にかけるのが滝姫さまとは……」
国豊は眉をひそめつつも、どこか照れたように返す。
「国家の大事に、まさか戯れを申されるとは。」
この時は、まだ二人の間に冗談を交わせるだけの余裕があった。
やがて忠行が、ふと真顔に戻る。
「……浮島のことは、残念でした。」
「戻ってきた民や郎党と共に、復興に力を尽くしております。」
国豊は静かに答えた。
「お陰で、今年は作付も再開できそうです。」
「それは何より。あの地は、捨て置くには惜しいほどの豊穣の地。必ずや甦りましょう。」
短い言葉のやり取りの中に、互いの無事を確かめ合う安堵と、これから迎える嵐を前にした覚悟が滲んでいた。
寛朝はそんな二人の様子を見守りながら、深く息を吸い込んだ。
――ここからが本番である。将門の影が濃く落ちる坂東の地で、僧侶の身で何を成すべきか、その第一歩を、今まさに踏み出そうとしていた。
香取氏の館に案内された寛朝一行は、腰を落ち着ける間もなく、次々と在地豪族らの報告を受けていた。
その最中、ふと廊の向こうから、かすかな衣擦れの音がした。
国豊が振り返ると、若やいだ娘がひっそりと立っていた。白木のように澄んだ面差し。だがその瞳には、影が宿っている。人の心の底を静かに覗き込むような、深い深い闇の色――。
「……滝姫さま」
国豊が静かに立ち上がり、娘の前へ進み出る。滝姫は恥じらいながら、小さく頭を下げた。
「……お久しゅうございます、国豊さま……」
「“父上”も、御戻りでしたか。」
忠行に対するその呼び方に、国豊はわずかに眉を寄せた。
忠行は国豊の疑念を察し、低く告げた。
「出自を欺かねば、身に危険が及ぶやも知れぬのです。……以来、滝姫様は “私の娘” ということになっております。」
そして、国豊へ向き直る。
「国豊さま……姫を、お預かりいただきたいのです。」
「滝姫さまを、私が……?」
国豊は思わず声を漏らした。
忠行は深く息を吸い、声を潜める。
「滝姫さまは、ご自身の行く末について予言をされ、恐れていました。――将門公の影が覚醒すれば、ご自身も闇に呑まれ“滝夜叉”となる、と。」
国豊は息を呑んだ。
滝姫は静かに目を伏せ、否定も肯定もしない。
「将門公が“新皇”を称したその日より、滝姫さまには常に影がつきまとっております。
星を読み、兆しを視る力……その異能は、人を導くと同時に、災いを呼ぶ。」
忠行の声には、余談を許さぬ緊迫感が滲んでいた。
「将門公の許へ戻せば、星神の闇は姫君を喰らいましょう。されど御息女と知れれば、朝廷方も黙ってはおりますまい」
国豊は言葉を失った。滝姫の現在の境遇は、まさに綱渡りである。
「姫君は、ご自身の行く末をすでに視ておられます。将門公の影が目覚めれば、御身も闇に呑まれ、“滝夜叉”となる、と」
忠行の言葉には、慰めを差し挟む余地もない。
忠行は続ける。
「今しばらくは香取神宮の庇護下に置き、寛朝様の結界の内に留めます。されど問題は、戦いを終えた、その先の未来のことなのです。――それを託せる方は、この地で最も信頼できる国豊さま、あなたをおいて他にありませぬ」
滝姫がそっと顔を上げた。その瞳には、恐れよりも覚悟が宿っていた。
「国豊さま。私は……誰かを呪うために生まれたのではありません。ただ、正しく、生きたいのです」
その声はかすかに震えていたが、芯は強かった。
国豊はゆっくりと頷いた。
「……承知いたしました。御身は、私が責任をもってお預かりいたします。」
忠行は深く頭を下げた。
滝姫もまた、静かに礼をする。
――その瞬間、国豊は悟った。滝姫を守ることは、将門公と向き合うことに他ならない。兄とも慕った若武者小次郎、朝敵となった新皇・将門公……何故、立場が反転してしまったのか。
「……小次郎さま。なぜ、かような道をお選びになった……」
その名を口にした途端、かつて交わした言葉と浮島の炎、そして滝姫の昏い瞳が、国豊の胸の奥で一つに重なった。
「いや、郷愁に浸っていては埒も無い。私は信太浮島の主。民を守り、姫を守る。それが、かつて兄と慕った御方に剣を向ける道であろうとも――」
国豊は、己の立場を堅持しつつ、民と姫を守るため、この大乱の顛末を見届ける覚悟を新たにした。
その夜、陣幕を渡る風が、不意に低く呻いた。
結界の外、闇の底で、何かが静かに目を開けた。




