龍脈の門前
寛朝が調伏の地として下総国 公津が原を選んだのは、決して偶然ではない。この地は、将門の本拠・石井営所と利根川水系を挟んで対峙し、将門の勢力圏に最も肉薄する外縁部、朝廷側の実質的な最前線であった。周辺の印旛郡、香取郡には、将門の急進的な叛乱に反発し、朝廷への忠誠を示す地方豪族や官人たちが集っていた。彼らは寛朝を迎え入れ、強固な警備を敷き、その身を守ることを約した。その盟約もあって、寛朝は奇襲の恐れなく護摩壇を築き、心を極限まで研ぎ澄ませて、護摩供に専念することができたのである。
そして、呪術的な観点から見ても、この地は大地を貫く霊脈、坂東を走る龍脈の急所でもある。この地は、まさに“祈りの戦場”として選ばれるべくして選ばれた地であった。
神代、天照大御神の命を受けた武甕槌大神と経津主大神の二柱の武神は、共に出雲へ天降りして大国主神に国譲りを迫り、その後、東国を平定して日本の建国に大きく寄与したと伝えられる。
公津が原は、武甕槌大神を祀る鹿島神宮と経津主大神を祀る香取神宮を結ぶ延長線上、すなわち東国最大の霊脈(龍脈)の真上に位置していた。
この二柱の天津神に最後まで抗い、最後は、この霊脈の底に沈められたという神こそ、星神・天津甕星であった。いま、この星神は、将門を依り代として復活し、二柱の武神の加護を塗り替えて「新皇(妙見)の国」を築こうとしている。
これに対峙する寛朝は、香取・鹿島と繋がるこの霊脈に、不動明王呪の強力な結界の楔を打ち込み、星神の力を再び霊脈の水底へ封じようとしたのである。
呪は、ただ唱えるものではない。大地に触れ、風に触れ、その地に満ちる“気”をつかみ取ってこそ、より力を成す。殊更に呪詛――調伏法は、対象の霊的地場に深く干渉するものであり、古来より、物理的に距離が近いほど効果が高まると考えられてきた。これはかつて、賀茂忠行が源護と平良兼の呪詛返しを行うため、自ら下向したのと同じ理であった。
この星神は強力な結界を張っている。遠く離れた京都からでは、祈りも真言も星神の結界に阻まれる。寛朝は自ら射程へと身を寄せ、光の波動を、直接、叩き込もうとしたのである。
その故に、この地への寛朝の下向は、必然であった。星神の結界を破り、将門の本陣へ届く“呪”を放つためには、この坂東の霊脈の加護の上に立つほか、道はなかったのである。
天慶三年(940年)一月の初旬、寛朝の旅は、神護寺の本尊である重厚な一木造りの不動明王像を、自らの背に括りつけることから始まった。背負子に固定された木像の重みは肩に食い込み、歩を進めるたびに足は血に染まった。
それでも寛朝は、ただひとつの執念――
「わが身が砕けようとも、この明王を東国へ届ける。」
その思いだけで前へ進んだ。
下向の道程は、まさに命を賭した強行軍であった。将門に宿る星神の感知を欺くため、寛朝は敢えて軍を伴わず、供の僧数名とわずかな護衛のみで進んだ。それでも、将門側が放った刺客の影は迫り、星神の呪いが行く手を曇らせる。
一行に、心の休まる瞬間は一刻たりともなかった。肉体と霊魂の双方を削る、苛烈な旅であった。
寛朝一行は、難波津(大阪)から船に乗り、海路で東国を目指した。目的地である公津が原は、香取海へとつながる利根川水系と印旛沼に面した天然の良港の近くにあり、京都からの物資補給や戦況報告を受けるには最適の、情報と物流の拠点であった。
その動きを察した星神は、天候を操り、一行を海の藻屑とせんと襲いかかる。
遠州灘に差しかかった頃、突如として昼間の空が漆黒に染まり、星々が不気味に明滅した。星の脈動と呼応するかのように天候が急変し、船を呑み込まんと高波が荒れ狂う。
船底が裂けんばかりに揺れる中、寛朝は甲板に立ち、降三世明王の印を組み、九字を切り、烈しい真言を吐き出すように唱える。
その瞬間、不動明王像の周囲に光が渦を巻き、船を包む結界となって大波を割った。
荒れ狂う海を前にして、船は奇跡を得て難所を切り抜けたのである。
やがて一行は、椿海の入り口、九十九里の尾垂海岸へと辿り着いた。房総沖の最後の難所を越え、ようやく上陸したとき、不動明王像を背負う寛朝の精魂は尽き果て、肉体はすでに限界に達していた。高熱にうなされ、意識は朦朧とし、足元の大地が揺らぐように感じられた。
――ここで倒れるわけにはいかぬ……まだ、目的の地へ至っていない。
そのときである。背に負った不動明王像が、にわかに熱を帯びた。大日如来の生命力が温かい光となって、寛朝の身へと流れ込んでいく。
――明王よ……まだ歩けると申されるか。
その聖なる加護の力に突き動かされるように、寛朝は再び歩を進め、遂に、一行は目的の地、公津が原へと到達した。
――星神よ……ここからが本当の戦いだ。
それは、祈りと呪いが交錯する東国の戦場へ、寛朝がついに足を踏み入れた瞬間であった。




