異貌の御前
怒りも慈悲もーー
あらゆる感情の色は、以前より濃く、鋭く、深くなっていた。まるで心の奥底に、もうひとつの人格が芽生え、将門の意思に静かに入り込んでくるようであった。
影が囁く。
「汝は王――王は迷わぬ。その意思は天意そのもの」
その声が落ちた瞬間、将門の意識がふっと軽くなった。
将門の心の奥で、“人としての迷い”がひとつ、またひとつと消えていった。
自分の意識の中に、別の何かがいる。――星神は、確実に彼の心を上書きしていた。
「これでよい。汝は完全に星神と一体となった」
「人であったときの名は消え、意志は消え、記憶は消える」
将門の声は、もはや人のものではなく、地の響きのような低く深い音となって紡がれた。
唇は、自らの意志とは無関係に動き始める。
「今や、この坂東において、天意に逆らう者は無い。この地は、天意が支配する王道楽土とならん」
その瞬間、祭壇の白砂が一斉に舞い上がり、星々の如く強く輝いた。
まるで天が、その変容を祝福しているかのように。
翌朝、軍議の場に、将門が姿を顕した。
その瞬間、空気が変わった。
「……!!」
重臣たちは、皆、息を呑んだ。焚かれた沈香の煙が、まるで恐れを抱くかのように揺らぐ。
――新皇・将門は、もはや“人の姿”を留めていなかった。
肩幅は倍に膨らみ、身の丈は七尺を超えている。将門が一歩、前へ進む。その歩みは、床板が減り込むほど重かった。
全身は、濡れたような漆黒の鱗に覆われていた。鱗は黒鎧と溶け合い、深い闇をまとっているかのように見える。両眼の奥で複数の瞳が蠢き、それぞれの瞳孔が別々の方向を向いては、ゆっくりと収束し、また散る。その動きは、天空の奥深くで星々が脈動しているかのようだった。
墨のように黒く、巨大な影が床に落ちた。だが、朝日を遮るその影は、将門の動きと一致していない。数拍遅れて揺らめき、別の生き物がそこに潜んでいるかのように蠢いていた。
重臣たちは、主の変貌に恐れ慄き、その場の誰ひとりとして声を上げることもできない。ただ、喉の奥で、声にならない音を、わずかに震えさせるばかりであった。
将門は、ゆっくりと重臣たちを見渡した。複数の瞳が、同時に、異なる角度から彼らを射抜く。その視線は、魂の奥底を覗き込み、天意に照らして裁くかのようであった。重臣たちは、膝が震え、誰もが本能で悟った。
――この御方は、最早、人ではない。
そこに立つのは、“新皇”という呪名と言霊が生み出した、人ならざる異形の王であった。畏怖と崇敬が渦を巻き、軍議の天幕には、凍りつくような沈黙が満ちていた。
その日、民家に隠れていた貞盛の妻女と源扶の妻女が捕らえられた。女たちは捕縛した兵たちに全てを奪われ、何度も辱めを受け、真冬の寒風の中、裸のまま将門の前へ引き出されてきた。
女たちは、寒さに恥辱に震えながら、僅かに顔を上げた。目の前の“異形の王”の姿を仰ぎ見ると、ますます恐れ慄いた。
女たちの腕を掴んでいた兵が、下卑た笑みを浮かべたまま報告した。
「貞盛、秀郷らの行く先は……知らぬそうでございます」
将門は、ゆっくりと兵たちを見下ろした。
その瞳の奥で、複数の瞳が静かに蠢く。
「……妻女らを発見し、捕らえたのは誰だ」
低く、深く、影と重なるような響き。
兵たちは互いに顔を見合わせ、賞されると期待したように笑みを浮かべた。
「我らでございます!」
その瞬間――将門の長剣が、音もなく抜かれた。一閃、五つの首が血飛沫とともに宙を舞い、雪の上を次々と転がった。
周囲の兵たちは、その光景を見て膝を震わせた。
将門は血糊を払うこともせず、抜き身を片手にしたまま静かに言い放った。
「強欲は罪であり身を滅ぼす、と言ったはずだ。軍律を乱す者は死罪――朕の意は、厳格に適用されねばならぬ」
その声は、低く深く響いた。妻女たちは、その有様に、更に怯えながらも、ただ、震えながら涙を流し続けていた。周囲の兵たちは、その涙すら恐ろしいものでも見るように、慌てて女たちの裸から目を逸らし、将門の御前に平伏した。
将門は、妻女らに向き直った。
その瞳は、星の光を宿しながらも、声だけは、微かに“人”の温度を残していた。
「朕の不徳の故に、酷い目に遭わせてしまい、誠に相済まなかった」
その声は、将門の“人”としての最後の残響であった。だが、女たちは、未知の恐怖とあまりの不条理の中で、目の光は失せ、唯々、茫然としていた。
「妻君らに新しい着物を与え、金子を持たせ、真壁まで丁重に送り届けよ」
近習にそう命じると、将門は静かに目を閉じた。雪の静寂の中、将門という“人”の最後の声が、ゆっくりと消えていった。
下野国府を陥落させた将門は、その勢いのまま秀郷・貞盛らを追った。奈河久慈の林野から民家に至るまで、五千の兵を従えて隈なく捜索を続け、その追跡は十日に及んだ。
しかし、捕らえることができたのは妻子のみで、秀郷・貞盛ら本人の行方は、ついに掴めなかった。
将門は、彼らをすでに坂東から追放したものと見なし、それ以上の捜索を打ち切った。




