星闇の器
新皇を名乗った日を境に、将門の身体は静かに変質を始めた。
最初は微細な違和感にすぎなかった。
――寒さを感じない。
――疲れを覚えない。
――眠らずとも頭が冴える。
呼吸が深く、異様なほど滑らかに流れ込む。だが、それは鍛錬の成果などではなく、明らかに“人ならざる変質”の兆しであった。
将門はふと、自らの影が“遅れて”動いたことに気づいた。影だけがまるで別の意思を宿した生き物のように、ふわりと揺れ、身体の動きに遅れて足元へ寄り添ってくる。
「……影が、勝手に動いておる……」
影は、将門の意思など最初から眼中にないかのように、動作とは無関係に揺れ、足元で冷たい滑りを帯びて蠢き出した。蛟が這うような湿った動きで脹脛、膝、腰へと絡みつき、黒い衣を纏わせるように身体を包み込んでいく。そして、肉体と霊魂のあいだにある薄膜を押し広げ、将門の肉の中へ“潜り込む”ように沈んだ。――その異様さに、誰も声を上げることができなかった。
“新皇”を称したことが呪となり、将門に取り憑いた星神の魂魄が、血肉と骨、そして魂そのものを塗り替え始めていた。
最初に変わったのは瞳であった。将門の左眼は生まれつき珍しい重瞳であったが、この時、右眼の瞳孔の奥にも星の影と光とが宿った。複眼のように視野が広がり、夜の闇が昼のように見える。
将門は気づかぬまま家臣たちを見渡した。左右の眼に重瞳が現れ、両の眼球の中で複数の瞳がばらばらに動く。その視線は、もはや“人の有様”ではなかった。
「見透かし、貫き、支配する」
――果たして、これが王の視線であろうか。家臣どもは、将門と目を合わせることさえ恐怖した。
「天意を受ける器。星神を宿す器。――その器に相応しく、汝を変える」
その声が胸の奥で響いた瞬間、脈が大きく跳ねた。将門は思わず胸に手を当てる。心臓の鼓動は、もはや以前のものではなかった。
皮膚の裏側から肉を押し裂くような圧が走る。胸の奥で心臓が星神の脈動に合わせて跳ね、そのたびに胸郭が変形し、人の身体とは思えぬ太さで脈動が浮き上がった。
ふと腕に違和感を覚え、袖をまくると、皮膚の下で影が脈打ち、肉と肉の隙間を押し広げて逆巻いている。血管は黒く膨れ、その中を流れるものは血ではなく、泡立つ黒い液体のようだった。皮膚の下の影は生き物のように動き、心拍と完全に同調していた。
鼓動がそれを押し流すたび、血管の壁が内側から裂け、裂け目から黒い血が滲み出る。
やがて、確実な破壊の感覚が、身体の奥深くを走った。
筋繊維が一本ずつ引き抜かれ、別の形に編み直され、肉の奥に巣を作られるように異質なものが埋め込まれていく。
腰まで達した影は、内臓の位置を確かめるようにゆっくりと這い回り、臓腑は形を変え、人間ではあり得ない配置へと収まっていった。
胸郭に影が触れた瞬間、肋骨が一本ずつ外側へ押し広げられ、骨が軋む乾いた音が微かに響く。
「王の背は、天と地をつなぐ柱となる」
その言葉とともに、背に黒い紋様が浮かび上がった。刺青でも焼印でもなく、星の形にも、龍の形にも、古代神の刻印にも見える影の紋。
背中に奇妙な感覚が走り、将門は背に手を当てた。そこには確かに“何か”があった。背骨の横に沿うように、何本もの別の筋脈が生まれたような感覚。その縁では皮膚が薄く裂け、黒い血が脈動に合わせて滲む。
黒い鱗の下で蠢く影が肉を押し破り、隆起し、盛り上がり、まるで新たな器官が背中に芽吹いているかのようであった。
「汝は星の御子。神々の意思と、地の霊の怨火が混じり合い、地上を治める王に相応しい新たな血肉を与えん。」
偉丈夫だった将門の身体は、わずか数日のうちに一回りも二回りも巨大になっていた。黒い血は皮膚と同化して硬い鱗をなし、黒鱗が全身を覆っていく。
将門は鱗に覆われた拳を握った。その拳には、かつてない力が宿っていた。
圧倒的な存在が内側へ入り込み、影は完全に将門と重なった。
その瞬間、“将門”という人は静かに消え、星神の影を宿した“新皇”が現出した。
「汝は選ばれた。そして、汝は受け容れた。――力と呪を。もはや、定められた道から逃れることはできぬ」
将門の肉体は星神の影に縛られ、彼の運命は完全に“天意の道”へと固定された。
その瞬間、歴史は人の手を離れ、天と影の領域へと踏み込んだ。
夜空の星々が、彼の頭上で静かに瞬いた。
まるで天が、その変容を祝福しているかのように。




