偽りの神座
追討の行軍の途中、慰安の酒宴が催された。松明の炎が揺れ、酒の匂いが濃く漂い、兵たちの笑い声が夜気を震わせていた。戦の最中とは思えぬほどの賑わいである。
だが、この宴こそ、将門を人の道へ繋ぎ止めていた片翼を奪い、やがて星神の闇へと踏み入る分水嶺となったのである。
この宴を企画したのは興世王であった。武人ではない彼は、武功で名を上げられぬ焦りを埋めるように、将門に“坂東を統べる新皇”の陶酔を呑ませようと、偽りの神座を演出したのである。やがて、宴の最中――娼妓のひとりが突如として立ち上がり、白布をまとって「総社の巫女」を名乗った。その声は震えながらも、どこか芝居がかった響きを帯びていた。
「八幡大菩薩の使いとして告ぐ――朕が位を、蔭子・平将門に授く。その位記は、左大臣・菅原朝臣道真の霊魂が表す。右八幡大菩薩、八万の軍を起こし、帝位を捧げ奉る。すみやかに三十二相の音楽を奏し、これを迎えよ――」
その時――
突如、国豊が席を蹴り飛ばし、雷鳴のような怒声を上げた。
「痴れ者め。将門公を帝位簒奪の淵へ突き落とすつもりか――許さぬ!」
腰の太刀を抜き放ち、興世王へと歩み寄る。
「この場にて成敗してくれようぞ──!」
場は一瞬、凍りついた。
興世王は仰天し、地を這って逃げ惑った。
国豊は刃を興世王の喉元に突きつけ、吐き捨てるように言った。
「死者を冒涜し、将門公を唆し、破滅へと誘う狡猾さ――獅子身中の蟲とは、まさにおのれの如き者を申すのだ」
近習、重臣らが、慌てて国豊を羽交い締めにし、ようやく刃が下ろされた。それほど、国豊の怒りは凄まじかった。
興世王は、まだ土の上に手をついたまま、肩を震わせている。
玄茂の淡々とした声が落ちた瞬間、興世王は息を呑んだ。
「……国豊様の逆鱗に触れたか。あの方は汝を疑っていた」
その声音には冷たい諦念があった。
「玄茂殿――私は……」
興世王は唇を震わせた。弁明は恐怖に押し潰されて消えた。
玄茂は、興世王の姿をしばし見下ろし、静かに言葉を継いだ。
「国豊様は、忠平卿の恩顧を忘れぬ。“忠義”と“道理”を重んじられる御方」
興世王は、震える指先で衣の裾を握りしめた。己の軽率さが怒りを招いた――今更ながら全身に冷たい汗が滲む。
玄茂は、興世王の顔を覗き込むように身を屈めた。
「功を焦るあまり、汝が阿諛追従に走るのは分からぬでもない」
興世王は思わず身を引き、背中が廊の柱に当たった。逃げ場はなかった。
「だが……、汝という男には、どこか冷笑が張り付いておる」
興世王は、崩れ落ちるように廊の床へ座り込んだ。
膝が震え、指先は力を失い、荒い呼吸だけが響いた。
「私は、国豊様にどのように……」
その声は、泣き声にも似ていた。
玄茂は、興世王を一瞥した。その視線には深い失望しかない。
「宴席であったことが、辛うじて汝の命を救ったな」
玄茂はそれだけ告げると、興世王に背を向けた。
足音は静かだった。振り返らないその背は冷えていた。
興世王は、廊の床に座り込んだまま、震える手で自分の喉元を押さえた。
つい先ほどまで国豊の刃が触れていた冷たさが、まだ皮膚の奥に残っていた。
外気が冷たく頬を刺す。松明の火が揺れ、呼吸だけが荒く響いていた。
国豊は、まだ胸の奥に残る怒りを抑えきれず、拳を握ったまま座していた。
やがて、玄茂が静かに姿を見せた。彼は国豊の怒りを真正面から受け止めるように、深く一礼してから、そっと口を開いた。
「国豊様。お怒りごもっともにございます。興世王の仕掛けは、軽率を通り越し、愚の骨頂にございました」
その声音には、怒りを否定しない誠実さが滲んでいた。
国豊は、怒りを押し殺した声で返した。
「愚かだと? 違うな。あれは悪意だ。将門公を破滅へ導く“蛇”の所業よ」
玄茂は目を伏せ、深く息を吐いた。その吐息は、夜気に白く溶けていく。
「しかし……国豊様」
玄茂はゆっくりと顔を上げた。
「坂東数十万の民草は、将門公に“王”として君臨していただくことを望んでおります」
その瞳には、焦燥と痛みが宿っていた。
「将門公の“義”によって統べられねば、諸侯は強欲に走り、坂東は再び乱れましょう」
その表情には、どうしようもない無力感が滲んでいた。
国豊は、握りしめた拳にさらに力を籠め、玄茂を睨んだ。
「だからといって、将門公を“偽りの神座”に据えようなどと……許さぬ!」
玄茂は、国豊の目をまっすぐに見つめた。
その喉がわずかに震え、言葉を絞り出すように続けた。
「民草が奉じる王こそが、天子であるべきです。諸侯が逆らえぬほどの輝きが、統治には必要なのです――それが“新皇”でございます」
国豊は、胸の奥が締めつけられるのを感じた。
「玄茂……お前まで、将門公を“逆賊”に仕立てようというのか」
拳がわずかに緩み、視線が揺れた。
玄茂は、国豊のその言葉に、どこか哀しげに目を伏せた。
「臣下の理だけでは、民は救えませぬ。……民草とは、それほどに弱いものなのです」
その声は震えていた。
国豊の怒りを恐れてではなく、自分の言葉が国豊を傷つけることを恐れていた。
「なれど、臣下としての範を超え、将門公を忘恩の徒に貶める。……それが将門公のためだと思うのか」
国豊の声には怒りより哀しみが滲んだ。
玄茂は、苦しげに顔を上げた。
「あなたの忠義は真に尊い。だが、その忠義が、将門公を孤独にしてしまうのです」
その言葉は、国豊の胸に深く刺さった。
怒りでも反論でもなく、ただ、痛みだけが残った。
玄茂は、最後に静かに言った。
「どうか……将門公の“孤独”を、見失われませぬように……」
その声は、祈りにも似ていた。




