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北辰の冥影 ~将門炎舞記~  作者: 浮島太郎
王道楽土

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王威、国府を開く

 常陸国府の炎が冬空を焦がしてから、十数日が過ぎていた。

 石井営所の一室で、将門は捕らえられた常陸介・藤原維幾を前に据えた。燭火は低く揺れ、縄を打たれた男の影を壁に大きく映していた。

「申せ。国豊を襲わせたのは誰だ」

 維幾は唇を噛みしめた。

 名を出せば、都にも坂東にも戻れぬ。

 それでも将門の重瞳に射すくめられ、ついに声を絞り出した。

「……下野の藤原秀郷じゃ。壬生の者どもと結んでおったのじゃ。秀郷は貞盛の後見人を名乗り、常陸に押し入って大掾を襲った。わしではない!」

 藤原秀郷――その名が出た瞬間、室内の空気がわずかに凍った。

 玄明への追討には、官符を根拠とする名分があった。だが国豊への襲撃は、壬生氏の強欲と、貞盛を旗頭に据えようとする秀郷の策とが絡み合った奸計であった。

「ならば、我に戦を仕掛けたも同然である。秀郷に兵を集める暇を与えるな」

 誰も異を唱えなかった。

 良兼を失った後の沈黙とは違う。今度の沈黙には、将門の決断を後押しする重さがあった。

 将門は、もはや退けぬと悟った。

 ――常陸国府襲撃から二十日後、将門は再び軍勢を整えた。

 進軍の道すがら、在地の豪族や伴類は次々と将門の軍門に下った。昨日まで形勢を窺っていた者たちも、常陸国府陥落の報を聞くや、旗色を変えたのである。

 軍勢は雪崩のように膨れ、やがて数千に達した。


 十二月十一日――。

 冬の空は錆を帯びた鉄のような色に沈み、下野国府の周囲には将門軍の旗が林立していた。冷たい風が吹き抜けるたび、黒地に朱の紋がはためき、坂東そのものが新たな主を迎えようとしているかのようであった。

 国府の楼上に立った下野守・大中臣完行は、その光景に膝が震えるのを覚えた。軍勢の中央に駿馬を進める将門の威容――山のごとくそびえる偉丈夫の姿が、冬の薄光の中に浮かんでいた。漆黒の大鎧に白布を纏い、威厳を湛えて静かに佇むその姿を前に、朝廷の神祇を司ってきた大中臣の血が囁いた。

「これは、抗すべき相手ではない」

 降伏するほかに道はない――。完行は国府の門をすべて開かせ、地に膝をついた。

 完行は名簿と印鑰を両手で捧げ持ち、深く頭を垂れた。

「下野守・大中臣完行、これをもって降伏の意を示す――どうか民に慈悲を」

 将門は馬上から静かに頷いた。

「民を苦しめる者を退けるために来た。其方の命まで奪うつもりはない」

 完行は胸の奥で奇妙な安堵を覚えながら、縄についた。


 その四日後――。

 将門軍は雪を踏みしめ、続けて上野国府へと進んだ。

 上野介・藤原尚範は、すでに下野の例を聞いていた。

 だが実際に将門の軍勢を目にした瞬間、尚範もまた完行と同じ震えに襲われた。

 将門の威容は、もはや「反乱の徒」のそれではなかった。新たな風をもたらす王の姿であった。

 尚範は戦を放棄し、国府の門を開いた。

 尚範もまた地に膝をつき、名簿と印鑰を差し出した。

「上野介・藤原尚範、これをもって降伏いたす」

 将門は静かに印鑰を受け取った。


 常陸、下野、上野――三つの国府が、立て続けに将門の前へ膝を屈した。印璽は移り、国司は捕らわれ、あるいは追放された。その報は、坂東全域の国司たちに、ただ一つの現実を突きつけた。


 抵抗は無意味である――。


 上総・安房では、かつて良兼に従った土着豪族たちが、その没後、すでに将門へ帰順していた。両国は大きな戦もなく、新たな政権の直轄領に組み入れられていった。

 武蔵国では、将門への警戒と治安維持にあたっていた武蔵権守・押領使の小野諸興が、将門軍の圧倒的な軍威を前に抗戦を断念した。

 恭順――それが唯一の選択肢であった。

 やがて将門軍は武蔵を経て、相模国へと進んだ。

 相模守をはじめ有力官人は、黒々と押し寄せる軍勢を前に肝を冷やし、戦わずして京へ逃れた。

 相模守には七郎将文が任じられ、国の統治は将門政権の手に移った。現地の有力氏族もまた、将門の軍威を前に服従を選んだ。

 伊豆は、将門の本拠から最も遠い国であった。

 坂東八か国の外側に位置し、足柄山・箱根山を越えた西端の地である。

 しかし足柄・箱根の山路を押さえるその地は、西から進む朝廷の討伐軍を阻む防壁となり、新国家の西方を守る要でもあった。

 六郎将武が伊豆守として派遣され、朝廷の動向を窺いながら、国の掌握を進めた。

 狩野氏・北条氏・伊東氏の祖となる在庁官人たちが割拠していたが、相模と同じく国司は逃亡し、残された豪族たちは将門への服従を選んだ。


 将門が追放したのは、民から搾り取るために坂東へ送り込まれた、朝廷の代理人を称する略奪者たちであった。

 この地を、この地の民の手へ取り戻す――その理念は、兵の胸にも、民の胸にも、確かな熱をもって広がっていった。


 こうして常陸国府の陥落後、坂東八か国は新たな流血をほとんど見ぬまま、将門の手に落ちた。

 武力が使われなかったのではない。

 抜かれる前の太刀こそが、最も深く人の心を制したのである。

 しかし朝廷が問うのは、将門の志ではなく、国府を奪ったという事実であった。

 三国の国府を掌握した時点で、将門はすでに一介の武士ではなかった。朝廷とは別の支配を、坂東に打ち立てたのである。

 その重さを知る将門の表情は、凱旋のときほど明るくはなかった。

 新たな戦をほとんど交えずに諸国を得たことは、勝利であると同時に、坂東の諸族がすでに朝廷から心を離しつつある証でもあった。


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