忠節の残り火
常陸国府を制したその日から、将門は、ただ一門の争いの当事者ではなくなっていた。国府を奪い、印鑰を掌握し、国司を退けた以上、望むと望まぬとにかかわらず、すでに支配する側に立っていた。民を救う義と、朝廷に背かぬ義。その二つは、将門の胸の内で、いつしか相容れぬものとなっていた。
それでも将門は、太政大臣・藤原忠平へ申状を送った。
その背後には、藤原国豊の強い勧めがあった。国府を攻めた次第も、民を守ろうとした志も、将門自身の言葉で忠平卿に申し述べるべきである。黙していては、叛逆の報せばかりが都に届く――国豊はそう説き、時機を失わぬうちに文を差し出すよう、切に促したのである。
己に叛意はない。調停を願ったが容れられず、やむなく兵を挙げたにすぎない。常陸国府の炎上も本意ではなく、民の苦しみを除くための軍旅であった――そう記した。
筆を執る将門の手は、戦場で槍を握るときよりも重かった。
文は人を斬らぬ。だが一度差し出せば、もはや取り戻せぬ。忠平のもとへ届くその料紙は、弁明であり、都との間に残された最後の細い橋でもあった。
「これは詫び状ではない」
将門は筆を止め、傍らに控える国豊へ目を向けた。
「されど、言い訳をするつもりもない。忠平卿には、我が何を守ろうとして兵を挙げたのか、それだけは伝えておきたい」
国豊は将門の眼を見据え、深く頷いた。
「その御心をこそ、お伝えすべきと存じます。叛逆との報せだけで、忠平卿に事の次第をお定めいただくわけには参りませぬ」
将門はしばし国豊を見つめ、やがて頷くと、再び料紙へ筆を下ろした。
申状に記した思いに、偽りはなかった。受領の苛政を憎み、坂東の民を救おうとしたことは、将門にとって紛れもない真実であった。だが政の場では、志がいかに清くとも、犯した罪の重さは消えぬ。
民を救うために国府を奪った行いは、救済であると同時に、反乱でもあった。
――京、忠平の屋敷・一条第。
将門の申状を受け取った忠平は、しばらく文字を追ったまま沈黙した。
忠平は将門の一本気な性質を知っていた。その将門が、兵を挙げた次第をつぶさに記し、なお都へ言葉を届けようとしている。
文字を追う忠平の脳裏に、自然と国豊の顔が浮かんだ。
――あの子が勧めたのであろうか。将門と都との縁を絶やすまいとする心遣いが、行間にほの見える気がした。国豊が傍らにいるならば、将門も己の思いだけを頼みに進むことはあるまい。
忠平は料紙を持つ手をわずかに緩めた。
遠い坂東に、なお心の通う相手がいる。そのことが、胸にわだかまる憂いを幾分か和らげた。
書面に並ぶ言葉の奥には、将門なりの真実がある。
忠平には、それが見えていた。だが太政大臣として、見過ごせぬこともあった。坂東の秩序が崩れたという事実は、将門ひとりの弁明で覆せるものではなかった。
忠平はすぐには返書を書かなかった。
書面の向こうにいる二人のことを思えば、記すべき言葉を容易には定められなかった。
一本気で、不器用で、恩を忘れぬ男。その男が今、恩義と反逆の境目に立っている。
「将門よ。お前は、なぜそこまで急ぐ」
忠平の問いに答える者はいない。
ただ、灯芯の焦げる匂いだけが御簾の内にこもっていた。
「義を見てせざるは勇無きなり、か……」
そう呟きながらも、将門の行いをすべて是とすることはできなかった。
義はしばしば秩序を破る。
秩序はしばしば義を押し潰す。
将門もまた、その矛盾から逃れることはできなかった。
民の期待に応えようとすれば、国司による支配の仕組みを壊さねばならなかった。
だがそれは、忠平への恩義と、朝廷への忠節を踏みにじることでもあった。
将門の苦悩は、善悪の間で迷うことではなかった。二つの義が、もはやともには成り立たぬと知った者の苦悩であった。
夜更け、将門はひとり灯を見つめることがあった。
民の歓声は、まだ耳の奥に残っている。
郎党の期待も、背に熱く迫っていた。
それでも胸の底には、忠平に顔向けできるのかという問いが、消え残る熾火のように燻っていた。
「忠平卿。我は、道を誤っているのであろうか」
――返事はない。だからこそ、その問いは将門の胸に深く残った。




