怨火、冬天を焦がす
維幾は、城柵の上から戦場を見下ろし、言葉を失った。
崩壊は、あまりにも早かった。
四方から鬨の声が押し寄せ、黒騎馬が門前を駆け抜ける。
将門の軍勢が土塀を囲み、国巣衆の投石が雨のように城内へ降り注いだ。
国府の兵は戦意を失い、守りは砂礫のように崩れ落ちていく。
「……国府が、将門の手に堕ちる……」
維幾は呟き、従者は震える声で問う。
「主よ……将門に降伏を?」
「もはや、命乞いするしかあるまい!」
維幾は白絹の単衣に着替え、捕縛される覚悟で門を出ようとした。
だが、その時――将門すら予期しなかった事態が起きた。
国府へ雪崩れ込んだ国巣衆が、正門を破り、火を放ち始めたのである。柵、櫓、厩、倉庫――炎は乾いた木々を舐めるように広がり、瞬く間に国衙全体を呑み込んだ。まつろわぬ民たちは、積年の怨みを吐き出すかのように暴れ回った。玄明の背後に、怒りの影が獣の姿をとって立ち上がり、彼らを煽り立てるかのようであった。
玄明は血走った目で維幾を探し続けた。
「維幾は、俺が殺す……俺の手でだ!」
その胸裏には、幼い娘の面影がちらついていた。なぜ、命を絶ったのか、あの子は、どんな目に遭ったのであろうか。――娘を救えなかった玄明の苦しみは、いま、獣の形となって噴き上がっていた。
「維幾だけは殺すな! 俺がやる!」
玄明の背に立つ獣影は、もはや抑えようもなかった。国巣衆もまた、維幾の圧政に耐え忍んできた年月を思い返し、怨火を噴き上げた。黒煙と怒号が混ざり合い、天を焦がす。
「国司を殺せ! 国司を殺せ!」
怨火は、もはや人の理を留めていなかった。
狂気の渦の中で、老若男女を問わず、雑掌・雑色に至るまで、一人残らず無惨に殺されていった。官人に群がり、何度も、何度も、刃を突き立て、息の根を止めた。その遺骸は正庁に吊るされ、炎と黒煙の中で揺れ続けた。その凄惨さは、将門軍の武将たちでさえ目を覆うほどであった。国巣衆による凌辱は凄まじく、もはや人の所業とは思えなかった。
維幾は最奥の塗籠に籠もり、内側から鍵をかけて震えていた。
「ば、馬鹿な……ここは朝廷の国府ぞ……それを、こんな……狂っておる……!」
呟きは闇に吸い込まれたが、やがて堅牢な扉を叩き割る音が響いた。
「ここだ! 維幾はここにいる!」
「殺せ! 国司を殺せ!」
扉が破られ、維幾は手足を掴まれ、引き摺り出された。
声にならぬ悲鳴を上げながら、国巣衆に殴打され続ける。
「そろそろだな……こいつを殺すのは、俺だ。」
玄明が維幾の襟首を掴んだ、その時――
「玄明、そこまでだ!」
将門であった。
「汝らの気持ちは、分かっているつもりだ。だが、これは戦だ。維幾は、これからの交渉の材として生かしておかねばならぬ。――堪えてくれ。」
玄明はしばらく将門を見つめ、やがて力を抜いた。
「……主の仰せの儘に。」
国巣衆も武器を納めたが、すでに手遅れであった。正倉までもが灰燼に帰し、国府は炎の海と化していた。
炎の中で、将門は悟った。――この怨火は、もはや止められぬ。ならば、自分がその先陣に立つしかない。その決意は、炎よりも静かで、炎よりも強かった。重瞳には、再び黒い焔が立ち上がる。
「……前に進むしかあるまい。」
将門は燃え盛る国府を見つめ、静かに呟いた。その表情には、かすかな笑みさえ浮かんでいた。




