孤影、雨に沈む
天慶二年(九三九年)夏、長らく病床にあった上総介・平良兼が没した。その死は、坂東の平氏一門にとって、ひとつの時代の終わりを告げるものであった。
桓武平氏高望流の長者格として坂東に重きをなす男であった。上総介として武射に盤踞し、さらに九十九里から香取海へ至る水運を掌中に収め、その威勢は近隣諸郡にまで及んでいた。
緋縅の大鎧を纏った巨躯は、さながら不動明王のごとくであった。ひとたび怒声を発すれば諸族は背筋を凍らせ、一瞥するだけで荒ぶる坂東武者を震え上がらせた。
そしてこの男こそ、将門が坂東へ下向して以来、ことあるごとにその前に立ちはだかってきた宿敵であった。
――その良兼が死んだ。
「これより後、誰が一門を率いるというのだ……」
貞盛の呟きは、虚しく広間に落ちた。
気づけば貞盛が、一門を率いる頼みの綱として仰いできた父も良兼も、もはやこの世にはいなかった。
叔父・良兼は、貞盛にとって、終始、畏怖の対象であった。
だが、思い返せば、良兼も父・国香も、幼い貞盛の行く末に期待を寄せ、折に触れて励ましてくれた。
「汝は坂東平氏の嫡流を継ぐ嫡男。いずれは一門の棟梁となるべき男ぞ。来るべきその日に備え、弓馬に勤しみ、軍事に励むがよい」
しかし、若くして朝廷に官職を得た貞盛は、都での安穏で雅やかな官人の暮らしに馴染み、それに満足していた。いずれ大夫と呼ばれ、堂上に上がる日も、この暮らしの先に訪れればよいと考えていた。
ところが、父の死を機に坂東へ帰郷した途端、その暮らしは断たれた。
良兼によって、一門の敵となった将門との抗争に引きずり込まれたのである。
将門の武威に恐れ慄き、参戦するたびに惨めな敗走を重ねた。逃げ隠れしながら、辛うじて命を繋いできた。挙げ句、朝廷から追討の官符を下され、追われる身となった。今や朝敵の汚名を雪ぐことすら叶わなかった。
そのためか、良兼への恨みが募り、敗走中の筑波山中で錯乱して、衝動のままに刃を向けたこともあった。だが、今となっては、なぜあのような振る舞いに及んだのか、自分でもわからなかった。恐怖と絶望が極まった末の、一瞬の狂気であったのか。
一方、将門は坂東の人々の信望を一身に集め、名声も威勢も増すばかりであった。
貞盛は唇を噛んだ。
「奴を討たなければ、いずれ坂東は将門に呑まれる」
だが、あの良兼でさえ、幾度戦っても敗れた。
どれほど兵を集めようとも、ついに勝つことはできなかった。
――将門は、恐ろしい。
命を失いかけるたび、その恐れは深まるばかりであった。
――夜ごと、悪夢に苛まれた。
夢の中では、将門の黒騎馬が屋形の門を破り、押し寄せてきた。
その背後には、漆黒の巨大な影が揺らめいていた。
「ま、将門かッ!」
影は屋形を覆い尽くし、やがて炎が噴き上がった。
「豊田を火責めにしたのは、わ、我ではない! 我は、し、知らなかったのだ!」
将門の巨大な影が、貞盛の身に迫った。
そのたびに、貞盛は全身に汗を滲ませて飛び起きた。
また、ある夜には、
良兼の亡霊が現れた。
「豎子め、この役立たずが!」
夢現のうちに、繰り返し罵られた。
貞盛は、童子のように声を上げて泣きじゃくり、許しを請うた。
いつしか、眠りに就くことすら恐れるようになっていた。
父・国香が夢枕に立つこともあった。
その姿を見るたび、貞盛の胸は締め付けられた。
顔一面に瘡蓋を生じながらも、平氏一門の繁栄に執着し続けた父であった。
灯火の揺れる寝所で、貞盛は幾度も寝返りを打った。
近頃、腕や背に小さな湿疹が出ていた。それを見るたび、疑念が胸をよぎった。血筋ゆえか。自分も父と同じ業病に侵されたのではないか。ある日、不意にこの身が腐り始めるのではないか、と。




