影、交わる夜
夜の鎌輪宿を、湿原から這い上がってきた冷気が包んでいた。
風が葦原を渡るたび、闇の底で葉擦れが微かなささやきを立てた。
屋形の奥では、灯火の炎が細く揺れ、三つの影が長く伸びていた。
平将門。
藤原玄明。
そして、藤原国豊。
沈黙を破ったのは玄明であった。
「……平将門公。お初にお目にかかる」
頭を下げた。
その低い声音には、炭櫃の熾火のような熱が込められていた。
将門は、藤原玄明を見つめ、わずかに頷いた。
「汝が、奈河・久慈の藤氏の一門か」
静謐でありながら、地霊を宿す器の響きを思わせる声音であった。
玄明は胸の奥が震えるのを覚えた。
――これが、平将門。
坂東の「英雄」と呼ばれる男。
義の旗を掲げ、強豪を打ち破る破軍の星。
ある者は武神と呼び、ある者は荒ぶる鬼神と怖れ、またある者は、その瞳に新たな坂東を見た。
――その名が坂東一円に轟くのも分かる。
灯火が揺れた。
将門の影が、ふっと揺れた。
将門は、警戒するようにしばし玄明を見据えていた。
やがて、その視線を国豊へと移した。
「……国豊。まずは、お前の無事を喜ぼう」
その面には安堵よりも、むしろ沈痛の色が濃かった。
「されど、民は多く命を落としたであろう……」
国豊は黙して、深く、深く頭を下げた。
「お前が襲われた件は、後ほど詳らかにしよう」
そう告げると、再び玄明へ眼差しを移した。
「聞くところによれば、汝は民のために戦う者だと」
玄明は鼻で笑った。
「連中は民を人とも思わぬ。飢えようが死のうが、意にも介さぬ。それが気に入らんから、俺は戦っている」
玄明の眼には、怨念が宿っていた。
「俺は何と罵られようと、黙って見過ごすつもりはない」
将門は黙したまま、何かを見定めるかのように、玄明の眼を見つめていた。
玄明という男の、その荒々しさの奥にあるものを。
その沈黙を破るように、国豊が一歩、進み出た。
「将門公。玄明は、民のために命を張る男です。どうか……この男を信じ、力を合わせていただきたい」
将門は、しばらく国豊を見つめ、静かに言った。
「国豊、お前がそこまで言うのなら……玄明、汝は信じるに足る男なのだろう」
将門の声が、静かに屋形へ響いた。
玄明は、まっすぐに将門を見据えた。
「初めて顔を合わせた者同士、今すぐ互いを信じよというのは無理な話だ」
将門は、わずかに眉を上げた。
玄明は構わず、言葉を継いだ。
「だが、民を守る志が同じなら――将門公、あんたと肩を並べて戦うことに異存はない」
ひと呼吸置いて、将門が一歩、玄明へと間を詰めた。
刹那、屋形の空気がひやりと沈んだ。
それは、将門の「王者の気」であった。声を荒げるでも、ことさらに威圧するでもない。ただそこに立つだけで、周囲の気配が一変した。
古より、人の内には「荒魂」、「和魂」など、幾つもの魂が宿るという。将門の気迫は、幾重にも折り重なる魂魄を、すべて従えたかのように玄明を圧倒した。
その気迫に押され、玄明の背後の影が揺れた。
奈河久慈の奥地に根づく血脈に古くから伝わる「獣の影」。
それは、獣の実体を思わせるほど濃密な影となって噴き上がった。
自然と共に生き、時に抗いながら命をつないだ一族の情念――怒り、恐れ、そして同胞を守らんとする切実な願いが生んだ「獣影」であった。
やがて、玄明の「獣影」に呼応するように、将門の足元から「七つ影」が立ち上がった。その気迫と灯火の揺らぎに映じ、背後の影は生き物のようにうねった。
蠢く七つの黒影は玄明の獣影を取り囲み、互いの気迫がぶつかり合うように対峙した。
炎が一斉に揺れ、屋形の空気が震えた。
「ち、違う、俺は、怯えてなど……!」
玄明は歯を食いしばった。だが、影は正直だった。
国豊は、二人の間へ割って入ろうとした。
だが、踏み出そうとした足が動かなかった。
見えない重圧に、足裏ごと床板へ縫い留められたかのようだった。
「くっ……! 玄明! 将門公! どうか、おやめください!」
その叫びすら、二人の気迫にかき消された。
その時、将門は目を閉じ、静かに息を吸った。
その一呼吸で、屋形の空気が変わった。
張りつめていた気がふっと緩み、影の揺らぎが静かに収まっていった。
将門の気迫は、七つの魂をひとつに束ねるように、静かな均衡を取り戻した。
将門はゆっくりと目を開け、そして柔らかく微笑んだ。
「良きかな、良きかな」
玄明は呆然と立ち尽くした。
自らの獣影もまた、いつの間にか静まり返っていた。
将門は玄明に歩み寄り、その肩に手を置いた。
「汝の覇気、確かに見届けた。荒ぶる獣影の気……その奥に『義』がある。それこそが、民を救う力となろう」
その掌は温かく、揺るぎない力を帯びていた。
将門はその肩に手を置いたまま、毅然と言い渡した。
「藤原玄明。我が与党となれ。我に従う七つの影は、汝の獣影と並び立つ日を望んでおる」
玄明は深く頭を下げた。
「……承知いたしました、将門公。この玄明、以後は御身とともに戦います」
玄明の胸の奥で、何かが静かに燃え始めた。
「これで坂東は、ますます面白くなるわ」
将門は満足げに頷き、高らかに笑った。
灯火の炎が、大きく揺れた。
その明かりの中で、将門、玄明、国豊――三つの影が、ひとつに重なった。
鎌輪宿の夜に、新たな盟いが結ばれた。




