朝の光、影の行方
夜が明けた。湿原にこびりついていた血と煙の匂いも、朝霧に溶けて薄れていく。昨夜の地獄など嘘だったかのように、坂東の朝は穏やかで、温かかった。
河内郡衙から奪い返した米俵は、国巣衆の男たちの手で、湿原の中州に点在する集落へ次々と運び込まれていった。
「お、お米だ……!」
「こんなにたくさん……!」
「夢じゃないのか……?」
女たちが駆け寄り、童子たちは米俵を取り囲んで歓声を上げた。
「ごはん食べられるね!」
「おなかいっぱいになるね!」
「おかあちゃん、今日お祭り?」
母親たちは涙で頬を濡らし、老人たちは震える手で米俵を撫でた。
「ありがたい……ありがたい……」
「玄明様……玄明様……」
玄明は照れたように頭を掻いた。
「おいおい、俺なんかを拝むなよ。皆で取り返したんだ」
昨夜、鬼の形相で国府の兵を蹴散らした荒くれ者たちも、今は炊きたての飯を童子の手に載せ、相好を崩している。
「ほら、持っていけ。おまえらが食わねば、意味がない」
その光景を見つめる国豊の胸に、熱いものが込み上げた。
――これが玄明の戦いか。
――これが“民のための暴れ”なのか。
昨夜、玄明が見せた呪術の恐怖。
今朝、民の笑顔に囲まれて照れる玄明。
その両方が、ひとりの男の中に同居していた。
国豊は清名を抱きしめ、静かに呟いた。
「……運命は、間違っていなかった。玄明と出会い、この道を進んできたことも……」
その頃、鎌輪宿では、将門が文机の前で地図を広げていた。
そこへ、息を切らした郎党が駆け込む。
「殿、一大事にございます! 浮島が国衙の兵に襲われ、大掾殿が……!」
将門の眉が跳ね上がる。
「国豊が国衙の兵に襲われた、とでも申すか?」
郎党は首を振った。
「いえ、行方郡司・壬生氏が国衙の兵を動かしたようなのです」
「なんだと! 国豊は無事なのか?」
「それが……国豊様も一族郎党も消息知れず。浮島館ばかりか、信太一帯まで焼き払われ、焦土と化したとのことです」
「な……なんということだ……!」
将門は項垂れ、拳を震わせた。
「とにかく、死んだと決まったわけではあるまい。国豊の消息を追え!」
怒りに呑まれかけた将門の気迫に、郎党たちは息を詰めた。
そこへ、別の郎党が駆け込む。
「将門さま……! 香澄流海(霞ヶ浦)で……“鬼”が暴れております!」
「鬼だと?」
「行方郡衙が焼かれ、不動倉も襲われました。行方郡司・壬生氏の一族郎党は、女子供を除き、ことごとく討たれたとのこと」
「な、なんだと……?」
今しがた“国豊の仇”と憎んだ相手が、すでに滅ぼされている。
「何が起きているのだ……?」
さらに別の郎党が駆け込む。
「信太北部の土豪、藤原玄明なる者、手勢百余を率いて河内郡衙を襲撃し、不動倉の米を奪ったとのこと!」
壬生氏の滅亡、行方の焼失、河内の陥落――一夜にして、坂東の地が裏返ったかのようだった。
そこへ、浮島の郎党・信太成宮が面会を求めてきた。
「将門公、信太成宮にございます。維幾めが壬生氏と結び、信太浮島を攻めましたが、国豊様は湿原へ逃れ、命を拾われました」
「おお……国豊は生きていたか!」
「ご妻女も清名様も、ご無事にございます」
将門は胸を撫で下ろした。
成宮は続けた。
「我らを扶けたのは、奈河久慈の藤氏に連なる土豪、藤原玄明。玄明は湿原の国巣衆と結び、併せて三百余を率いて河内の不動倉を襲いました。同じ頃、佐伯民も行方郡衙を攻め、郡司の兵を殲滅しております」
将門は言葉を失った。錯綜する報せを、ひとつずつ頭の中で繋ぎ合わせた。
「……つまり、国豊は生きており、その国豊を救った藤氏が、国巣衆を率いて国府を相手に叛乱を起こした、というのだな」
将門は弾かれたように立ち上がった。
「はっ。国豊様と玄明殿は将門公の庇護を恃み、すでに鎌輪の近くまで参っております。お目通りを願いたいとのことにございます」
「なに、国豊が近くまで来ていると!」
だが、すぐに我に返り、静かに座り直した。
「そうか……。まずは、安堵した」
「玄明なる者にも会わねばなるまい。真に民のために戦う者であるならば」
その瞳には、英雄の光と、やがて時代を呑み込む影とが、かすかに揺らめいていた。




