信太浮島、燃ゆ
天慶二年(九三九年)初秋。
夜明け前、秀郷の軍は動いた。
信太郡北部。森林が点在する湿原の奥、緩やかな丘の上に玄明の館があった。地形は防御に適し、館の北には原生林、西には果ての見えぬ湿原が広がっていた。この湿原は常総方面まで五里に及び、いくつもの河川が追手の行く手を阻んでいた。攻め入るには、田畑の開けた南と東の二方向から、歩兵の数を恃んで押し寄せるほかなかった。
玄明は館の周囲に深い堀を巡らせて川の水を引き、高い土塁を築いていた。木柵と逆茂木を田畑にまで設け、三基の櫓も備えていた。
南からの攻略を任された一陣の武将は、無理に攻め寄せることを避け、まず兵を横一列に展開させた。初手から大弓を構えさせ、油を染み込ませた火矢を射掛けさせた。
逃れるには、西の湿地帯を抜けるか、北の丘陵を越えて筑波山方面へ向かうしかなかった。玄明は秀郷軍との正面衝突を避け、一族郎党を率いて西の湿原へと退いた。湿原の奥深く、北西へ進めば、騎馬による追撃は及ばぬ。
だが、問題はその先である。逃げ延びたとして、どこで生きていくのか。
玄明は、ついに一つの結論に至った。将門の名声に縋るしかない。
「かの御方であれば……」
その淡い期待だけが、一族の命運を支える拠り所であった。
玄明の兵は後退し、妻子を連れて湿原へと消えた。
秀郷は追わなかった。
代わりに、玄明の館へ火矢を放ち、油を撒き、焦土と化すまで焼き尽くした。さらに信太の村々、集落を、悉く焼き払った。収穫を終えたばかりの豊かな地は、炎の中で幻のように消えた。
一方、軍船で浮島へ渡った壬生氏は、対岸に立ち上る黒煙を見て歓喜した。
――国豊は、もう戻れぬ。
国豊は叫んだ。
「壬生氏、これはいったい、如何なる故あってのことか」
壬生氏は答えなかった。
「そうか……」
国豊は、問うことを諦めた。
「承知した。では国府の掾として、汝ら賊を殲滅してくれよう!」
その一言で、国府の兵たちは動きを止めた。
「大掾殿……我らは……」
やがて、武器を捨てた。
壬生義宗は舌打ちした。
「我らだけで殲滅する。続け!」
壬生氏の兵だけであれば兵力差はなく、むしろ防衛側に利があった。
浮島の郎党は激しく抵抗した。壬生氏の兵に、一斉に矢が降り注ぐ。
国豊と兼遠の放つ矢は、すべて急所を射抜いた。その精確さは、まるで怨念すら宿しているかのようだった。
壬生氏の郎党は次々と倒れていく。
しかしそこへ、秀郷の後続歩兵を乗せた軍船が寄せてきた。兵はおよそ二百。彼我の兵力差は、もはや覆しようがなかった。
死ねない。守るべきものがあった。国豊は妻の手を引き、清名を抱き、死に物狂いで洞窟へ走った。舟に乗り、水面へ漕ぎ出す。櫂を握る国豊の手は震えていた。浮島の郎党も家人も武器を捨て、兼遠・成宮も舟で脱出した。
対岸に着いたとき、国豊は舟から降り、振り返った。
――信太が、燃えている。
浮島も、村々も、田畑も、家々も、人の営みも、祈りも、すべてが炎に呑まれていた。
炎は天を焦がし、黒煙は空へ昇り、香取海の水面に影を落とす。
その影は、人の影か。あるいは、この地に古くから沈む怨霊の影か。誰にも判じがたかった。
壬生氏の強欲と驕り。
秀郷の嫉妬と劣等感。
この二つの闇が、信太の地を焼き尽くす炎の正体であった。
国豊は言葉を失った。
妻は清名を抱きしめ、すすり泣いている。
兼遠も成宮も、血に濡れた衣のまま、ただ炎を見つめていた。
国豊の胸に、黒い泥のような絶望が広がった。
――守れなかった。
――俺は、何も守れなかった。
炎が爆ぜるたび、国豊の影が揺れた。まるで炎の底に沈む怨霊が、その影へ手を伸ばしているかのようであった。
国豊は、その影を見つめた。そして、ゆっくりと顔を上げた。その目には、涙ではなく、燃え残った意志の火が宿っていた。




