父影沈み、子影立つ
壬生氏が退室すると、部屋には、まるで何かが抜け落ちたような静寂が残った。
壬生氏の言葉が、なお為憲の耳の奥で燻り続けていた。
――土地を得ずして兵を動かすは愚。
――玄明と国豊を討つなら信太浮島領を奪う。
その理は、あまりに明晰で、あまりに冷徹であった。
否定し得ぬことが、為憲の胸の底をざわつかせた。
為憲は、父・維幾の横顔をそっと見た。
維幾は扇を閉じたまま、微動だにしなかった。
だが、その肩がわずかに震えているのに気づき、為憲は息を呑んだ。
(父上は……何を恐れておられるのか)
為憲自身も恐れていた。
だが、その恐怖は父のそれとは異なっていた。
維幾の恐れは、官人としての地位と名誉を失うことにあった。
為憲の胸に巣くうものは、もっと暗く、もっと個人的な怨念であった。
(国豊……あの男の、あの澄んだ眼差しが、どうしても許せぬ)
坂東に流されてなお、国豊のような“生まれながらの強者”が道を塞ぐ。
その現実が、為憲の心を長く蝕んできた。
「……為憲」
沈黙を破ったのは、維幾のかすれた声であった。
その声音には、官人としての威厳よりも、ひとりの老いた父の迷いが滲んでいた。
「壬生の申したこと……どう思う。あれは、妥当と申せるか」
為憲は、すぐには答えられなかった。
灯火の揺らぎが、父の顔に深い影を落としている。
「妥当……にございましょう」
ようやく絞り出した声は、驚くほど冷ややかであった。
「国豊を討つには、秀郷殿の力を借りるほかございますまい。
父上も……それをお認めになったでしょう」
維幾は目を伏せた。
その仕草には、官人としての矜持よりも、敗北の色が濃かった。
為憲は、父の弱さを見て、逆に自らの内に硬い芯が生まれるのを感じた。
「ですが、父上。怖れに囚われていては、我らは国豊にも玄明にも、そして将門にも呑まれましょう」
その言葉に、維幾はゆるりと顔を上げた。
その目にはわずかに光が戻った。だが、そこに宿るのは決意ではなく、焦燥であった。
「しかし……秀郷は強欲というではないか。壬生氏の申すままに信太浮島を攻めたとて、奴に何の利がある。いや、壬生氏こそ、我らの知らぬところで秀郷と密約を交わしたのではあるまいな。……何か、よからぬことを」
「どのようなことをお疑いで?」
「秀郷を常陸に引き入れ、我が国府を簒奪する好機を与える……そういうことよ」
為憲の胸の奥に、かすかな冷笑が浮かんだ。
――父上は、己の罪の意識に苛まれ、疑心暗鬼に陥っておられる。
「まさか。壬生殿に限って、そのような策はありますまい。浮島の大掾は秀郷と旧知とか……我らのあずかり知らぬ因縁があるのでしょう」
維幾は鼻で笑った。
「人は、利がなければ動かぬものよ。為憲、汝も少しは頭を使え。疑うことを忘れれば、ここまで積み上げてきたものを失うことになるぞ。汝はそれを許すか?」
為憲は答えなかった。
維幾は続けた。
「まあ、よい。我らは土着する者どもとは違う。いざとなれば、国府など明け渡して、都に逃げ帰ればよいだけのことだ」
その言葉に、為憲の胸の奥で、黒い泥が静かに波立った。
逃げ帰る。その発想こそ、為憲が最も軽蔑する弱さであった。
維幾はふと声を落とした。
「……為憲。汝は、どうしたいのだ」
為憲は、深く息を吸った。
胸の奥の黒い泥が、今確かな形を成した。
「国豊を討つ。これは……私自身のためにございます」
維幾は息を呑んだ。
その言葉は、あまりに率直で、あまりに危うかった。
「壬生氏の策に乗りましょう。秀郷殿に信太討伐の名目を与え、国豊と玄明を討つ。それが、我らが官人として生き残る道にございます」
維幾は長い沈黙ののち、震える手で扇を開いた。
その動作は、まるで己の運命を受け入れる儀式のようであった。
「……もはや、他に道はあるまい」
その瞬間、父子の迷いはひとつの方向へと収束した。
だが、それは明るい兆しではなく、深い闇への誘いであった。




