強欲の胎動
常陸国衙正庁。
その夜、奥まった塗籠に、灯火がひとつ揺れていた。行方郡司・壬生氏は、壁に影を落とし、静かに盃を傾けていた。
壬生氏は、古くからの土豪であり、行方・香取・鹿島の水運利権を押さえる一族として、常陸国内でも屈指の実力者であった。
壬生氏は、最初から野心を隠さなかった。
戦を恐れぬ男であった。むしろ、戦こそ天与の好機と信じていた。
やがて扉が開き、常陸介・藤原維幾と、その子・為憲が姿を見せた。
壬生氏は盃を置き、ゆるりと笑んだ。
「……そうか。下野の藤原秀郷に合力を恃んだと申すか」
維幾は扇を軽く振り、鷹揚に言った。
壬生氏は、維幾の不安を見透かすように頷いた。
「秀郷殿は、将門の覇業を脅威と見ております。いずれ下野も常陸も、将門に呑まれるのではないかと」
維幾の顔に、怯えが滲んだ。
壬生氏は続けた。
「源護殿と高望王一門の絆によって保たれていた利は崩れ、今や常陸国内には軍事の空白が生じております。その隙に、将門の与党と目される大掾までもが力を蓄え、常総の諸族は挙って将門に靡き、もはや国司の威信も及ばぬ有様……」
維幾の眉が動いた。
壬生氏は、その反応を逃さず、さらに言葉を重ねた。
「信太の地を奪う……それは、常陸の勢力図を塗り替えることにほかなりませぬ。悪しき芽は、手遅れとならぬうちに摘み取るもの。されど、土地を得ずして兵馬を動かすなど、愚の骨頂にございます」
その声音は穏やかでありながら、刃のように鋭かった。
「だが、もし下野国と結ぶということなれば、我らは下野守・藤原弘雅殿を恃むべきではないのか」
維幾の問いに、壬生氏は鼻で笑った。
「忘れたのですか。良兼殿は下野守を恃んで裏切られ、敗走したではありませぬか。下野守・藤原弘雅殿は国豊の近親。すでに将門に籠絡されておりますよ。我らの楯になど成りませぬわ」
そして、声を潜めた。
「だからこそ、下野守と対立する鹿島、鳥取の両氏を通じて、秀郷殿と密かに手を結ぶのです。維幾様にご迷惑が掛からぬよう、私がこうして橋渡しをしているのですよ」
その言葉は甘い蜜のようでありながら、毒を含んでいた。
「しかし……秀郷殿は、朝廷から追討官符が出ている暴虐の徒ではないのか」
維幾の声は震えていた。
壬生氏は、あえて大げさに肩をすくめた。
「何を今さら。その“賊”が、今や数千の私兵を抱え、坂東屈指と謳われる騎馬軍を持つ。国府の兵など、足元にも及びませぬ」
為憲が息を呑んだ。
壬生氏は、二人の動揺を愉しむように、盃を指先で回した。
「官符を受けた五か国のうち、秀郷殿を討とうと動いた国などありませぬ。常陸介殿も、これまで何もなさっておらぬでしょうよ」
維幾は言葉を失った。
壬生氏は、維幾の弱さを見抜いていた。為憲の焦りも、すべて計算に入れていた。
将門の脅威に備えるべく力を得る。
目障りな国豊と玄明を討つ。
信太浮島を奪い、利を得る。
秀郷の野望、壬生氏の強欲、そして維幾父子の恐怖が、今一つの線で結ばれようとしていた。
壬生氏は、静かに笑った。その笑みは、闇の底から湧き上がるもののようだった。
「さあ、維幾様。信太討伐の名目を、秀郷殿にお与えくだされ。それが、常陸を守る唯一の道でございます」
維幾は、盃を握る手を震わせながら、ついに頷いた。その瞬間、常陸国の運命は、静かに、しかし確実に狂い始めた。




